山口地方裁判所下関支部 昭和36年(わ)210号 判決 1970年7月09日
主文
被告人吉本敏彦、同和田繁美、同角野十治、同塩田道吉、同梶原則之をいずれも懲役三月に
被告人住田孝男を懲役六月に
各処する。
但し、右被告人六名に対しこの裁判確定の日から、いずれも二年間右各刑の執行を猶予する。
訴訟費用<略>
理由
第一章 総論
第一、会社と労働組合の概要
一、会社
山陽電気軌道株式会社は大正一三年七月九日本社を下関市に置く資本金四五〇万円、主たる営業目的を下関市を中心として電気軌道を敷設し、一般運輸を営む株式会社として設立され、昭和七年一一月三〇日、その目的を地方鉄道並びに自動車による一般運輸営業と改め、次第に業務を拡張し、昭和三六年五月当時、資本金二億二千五百万円、従業員数千三百余名、電車五一輛、バス二六五輛を保有し、電車課二、バス営業課七を設け、下関市を中心に山口県西部で、ほぼ独占的な旅客運輸業を営む会社となつた。
二、組合
組合は昭和二一年二月二八日企業内単一の山陽電軌労働組合として発足、昭和二二年一月私鉄総連の結成と同時にこれに参加すると共に、その頃結成された中国地方私鉄連合会に加盟し、同二八年二月右連合会が個人加盟の私鉄中国地方労働組合として単一組織に改組される際、全員これに加入して私鉄中国地方労働組合山陽電軌支部と名称を改めたが、昭和三四年一二月二四日事実上の分裂を起こし、山陽電軌従業員組合、翌二五日には山陽電軌労働組合結成準備会が相次いで誕生し、同月二九日右両者は大会を開き統一を遂げ、新たに山電従業員百数十名をもつて組織する企業内組合である山陽電軌労働組合が発足し、その組織は後記のように発展し、昭和三六年五月当時両組合における所属員数は山労が八百余名、支部組合が五百余名であつた。
第二、組合分裂までの会社と組合の関係
昭和二五年頃を境として、それまでかなり劣悪な労働条件下に置かれていた山電従業員も、職場を中心とした活発な斗争を行い、組合の力が漸次強化されるに伴い、次々と好労働条件をかちとり、昭和二六、七年頃からは全国的にみて最高に近い水準の労働条件を獲得し、山口県は勿論のこと中国地方労働界の中核的存在として活動し、いわゆる春斗・年末斗争等においても、同盟罷業に訴える迄もなく、私鉄大手に遜色のない賃金を獲得するなど、その力は強大なものとなつた。
一方、会社の方もバス路線の伸びが順調で、従つて営業収益も向上の一途を辿り、昭和三〇年上期まで一割の配当をなし、発展の歩みを続け、昭和三〇年下期と同三一年度に多少の鈍化はみられたものの、路線バスの伸びは大手を凌ぐものがあり、特に貸切バスは急速な伸びをみせ、昭和三〇年上期の運輸収入を一〇〇とした場合同三四年上期は、鉄軌道において一二七、バス部門において一六九の指数を示すなど大巾に伸びた。しかしながら、昭和三三年関門トンネルの開通をひかえ、会社は下関博多間の単独運行による路線の開発収益の増大を企図し、二億数千万円の短期資金を借入れ、昭和三二年上・下期に従前の約二倍に相当する合計六九台の新車を購入し、運行に備えたが、その意図に反し、単独運行の認可はおりず、昭和三三年三月山電、西日本鉄道株式会社その他数社で設立する関門急行のみの認可となり、関門トンネル開通による山電のバス路線拡張の計画は挫折したばかりか、借入金金利の増加は経営圧迫の一要因となり、更に急カーブを描いて伸び続けていたバス路線もようやく飽和のきざしを示し始め、昭和三四年下期にはその生長も停滞の様相を見せるようになり、会社幹部の間においては、従来のような安易な経営方針では将来行き詰りを生ずる、すなわち企業の危機として受取られ、人件費の上昇をいかにして低く押えるかということが企業経営の第一の重点施策として認識されるようになり、ここに従来の労使の共存共栄の時代は終り、低賃金政策の必要に迫られた会社側としては、前記のように強力な組合を抱える企業として必然的に労務政策が企業における最重点政策として浮び上つて来る結果となつた。
このようにして、三四年下期に入ると会社は「労務ニュース」を創刊して不況宣伝を始め、「会社の営業収益に見合つた賃金要求を、さもなければ会社は数年後には行き詰る。」と企業の危機を各組合員に積極的に訴え、その協力を求めると共に同年一〇月頃、従来の人事課を労務課として、労務と人事を結合するよう改組し、約一〇年間会社で労務問題に専従していた梶山美路を課長に任命して労務関係を強化し、指導教習係を昇格させて教養課とし、従業員の監督、指導を任務とする指導員を大巾に増員、更に新たに係長制度を設ける機構改革を行い、元組合三役、或は執行委員の経験者を抜擢して新係長に当て、これまで組合の力に押されつ放しの会社の態勢を立て直し、組合と対決する姿勢を強めていつた。右と相前後して、組合は労働協約(一年契約)の改訂期を迎え、三四年一〇月末頃組合大会において、私鉄総連の指導方針に則り、(1)各職場における定員の確保(2)労働時間の短縮と走行キロ制限(3)ダイヤの逓減(4)労使双方で構成するダイヤ編成委員会の設置等を骨子とする約八〇項目に及ぶ改訂案を正式に決定し、その頃会社に提示した。一方会社側も同年一一月中旬(1)就業時間中の組合活動の制限(2)争議期間中の就労要員の拡大(3)懲戒条項における組合の同意権の廃止(4)祝祭日休暇の有給制を無給制に改める(5)生理休暇三日間の有給制を廃止し無給とする等を中心とした六八項目に上る今まで例を見ない多くの改訂案を提示した。
組合側はこの提案に驚くと共に十数年に亘つて斗争の中でかち取つた労働条件を一挙に崩す苛烈な提案として受止め、ことに、懲戒に関する同意約款の改廃は組合の組織維持・防衛の中心的権利であるとして、絶対に認め得ない提案であるとの前提に立ち団体交渉を行なつたが、従来の団交とは様子が異なり、当初から会社側の態度は強硬そのもので、ただ形式的に団交を重ねるだけで労使の主張は並行線を辿り、実質上の進捗は殆んどなかつた。そこで組合側は会社案の撤回、組合案による妥結を目指して、同年一一月末頃から時間外勤務拒否、指名スト、時限スト等多彩な争議を指令して局面の打開を計ると共に、私鉄中国から香山中央執行委員長、私鉄総連から篠原中央執行委員を迎え、労協斗争に取り組んだが有効な進展は見られず、日を追つて労協改訂をめぐる労使の対立は激化し、組合側は一二月二二日二四時間の全面ストを計画し、会社側は同月二一日頃賃金分割払の提案をして応酬するなど労使双方の対抗手段はしだいに激しさをまし、緊迫した情況が続き、解決の見通しは全くたたず、遂に唯一交渉団体約款・ユニオンショップ等の効力規定を持つていた労働協約は同月二二日をもつて失効し、組合としては結成以来はじめての無協約状態という最悪の事態に直面した。ところが労使が、かかる熾烈な斗争を展開しているさなかの同月二四日後記のようにして組合の分裂が起こり、労協斗争は以下のように急転直下妥結を迎えるに至つた。すなわち、分裂の前日である二三日、分裂の動きを知つた支部組合幹部は翌二四日午前中急拠執行委員会を開き、今や労協の改訂よりも組織防衛が第一であるとの結論から、一日も早く斗争を収拾すべきであるとの決議により、八〇項目に上る改訂要求を全面撤回し、従前の労働協約の自動延長という方針に改め、同日昼すぎ開かれた労協に関する団交で、正式に従前の労働協約と同一内容の労働協約を結ぶことで労使双方の合意が成立した。このとき組合側は二二日で協約が失効し、二四日労協の締結となると二三日が無協約となることから、無協約状態の解消のため、二三日付で労協締結を強く要請したが、会社側は、今までは組合の要求に譲歩を余儀なくされて来たけれども、今後は筋の通らない妥協は一切排除する。二四日に双方が合意に達したのであるから二四日付で調印すべきで、一日でもさかのぼるべきではない。と高姿勢を打出して譲らず、結局労協斗争は一二月二四日の労使双方の同日付の調印をもつて終結を遂げ、これを境として、会社と支部組合との力関係は労協調印のいきつさに示されたように、従来の主客を転倒し、支部組合の勢力は急激に衰え、会社側の力は急速に増大していつた。
第三、組合の分裂
既に述べた如く、会社側は三四年下期に至ると人件費の上昇を阻止するため労務対策に力を注ぎ、労務課の拡充をはじめとする機構改革、指導係員の増員、組合活動家とみられる者の係長への登用、従来例をみない苛烈な労働協約の改定案の提示、不況宣伝等の諸施策を次々と打出し、これを布石として、裏面で新任用の係長を中心とする新組合の結成をもくろみ、組合分裂政策を着実に押し進めて行つた。そして裏面での分裂政策は、労働協約の失効を待つていたかの如く、協約が失効した三四年一二月二三日反共或は民社党後援会加入署名活動となつて表面化し、翌二四日にはいち早く、政治斗争偏重、斗争至上主義、共産党色の強い組合、会社の支払能力を越える無謀な賃金要求をする組合などと支部組合批判を掲げ、いずれも右機構改革によつて新係長に登用された植田厚生係長を委員長、中山運行係長を副委員長、川村保線係長を書記長とする山電本社地区従業員九七名をもつて組織する山陽電軌従業員組合が結成され、植田ら組合三役は直ちに会社側に団交を申入れ、支部組合の前記労働協約締結に先立つて、失効した従前の労働協約と同じ内容の労働協約を締結し、引続き翌二五日には、委員長小浜俊昭、副委員長光井立人、書記長大浜勝美とする現場の従業員約一〇〇名をもつて組織する山陽電軌労働組合結成準備会が誕生し、同日午後会社側と団交し、右と同一の労働協約を締結したが、同月二七日両新組合は合同することを決め、同月二九日頃新組合の結成大会を開き、両者は統一し、委員長小浜俊昭、副委員長重田馨、書記長藤村伝とする山電従業員百数十名をもつて組織する山陽電軌労働組合が発足したことは前述の通りである。
梶山四回証言、松田六九回証言は会社の分裂工作を全面的に否定する。なるほど本件記録中には、表面上直接これを証するものはないが、前記機構改革における組合三役、執行委員経験者の課長、係長への登用、特に係長では九〇%を占め、これらの者が第一回の分裂の組合三役となつていることは、分裂について彼等が重要な役割を演じたことを物語るものであり、労働協約改訂における前記会社側の強硬な態度はことさらに労働協約の失効をねらつていたものと推測される、即ち会社側が事実懲戒条項における組合の同意約款等数十項目に及ぶ改訂を望んでいたとするなら、右のようにして誕生したばかりの弱小な組合と労働協約を結ぶに当りこれらの改訂案を全面撤回して従来通りの労協を締結するということは、納得し難いものがあり、また未だかつて一日たりとも無協約状態のなかつた労使間において支部組合がわずか一日だけ遡つて無協約の空白を避けるため昭和三四年一二月二三日付での労協調印を望んだのに対し遂に譲歩しなかつた事実、そしてこの一日間の無協約状態の中で第一回目の分裂が行なわれたこと、更に従来の労働協約が支部組合を唯一交渉団体と定め、完全ユニオンを盛り込んだものであつたこと、従つてこの協約が有効に存在する限り新組合の誕生は理論上も事実上も不可能であつたこと、これらの事実を総合して考えると、会社側は新組合を誕生させるためには、とにかく無協約状態を作り出す必要があり、その線にそつて意識的に数十項目に及ぶ解決困難な改訂案を提示して支部組合を無協約状態に追い込んだものとみるのが相当である。更に進んで第二回目の分裂の状況をみるに、会社と支部組合との前記労協交渉が行き詰つた昭和三四年一二月の段階で組合内部は、地労委提訴と実力行使による解決との二つの戦術をめぐつて二分され白熱の論議を呼んだ際、当時、支部組合の副委員長であつた小浜俊昭、同じく執行部調査部長の大浜勝美、執行委員光井立人らは正月における全面ストライキ等の強硬論を主張し、僅か一、二票の差で実力行使の強硬論が勝を制し、結果的に労働協約の失効という事態を招来するに一役を買い、又その頃執行委員会の決定事項が会社側に漏洩しているのではないかと疑われる事実があり、会議中一切の電話の禁止、出入りの禁止措置をとるなどのことがあつた。ところが、右強硬論者であつた小浜、光井、大浜らが中心となつて前記のように斗争至上主義、政治斗争の偏重という支部組合に対する批判を旗じるしにして同月二五日小浜委員長、光井副委員長、大浜書記長とする第三組合が結成されるに至つている。してみると、右小浜らの言動は首尾一貫せず、右強硬意見の主張が、斗争激化を目ろみ、組合分裂の布石であつたとまでは云えぬにしても、きわめて、疑惑のベールに包まれた所為と云うほかはない。加えて、右二組合との労協締結の際における会社側の態度、即ち第二組合の植田委員長ら三役から同月二四日午後三時頃新組合の誕生と労協締結の団交を申し込まれるや会社側は僅か一〇分足らずの協議をした丈で直ちに所属する組合員の名も確かめず、午後三時一〇分頃から団交に応じ二、三〇分の団交で労働協約の妥結をみている。前記梶山証言によると、団結の自由がある以上云々との記載がみられるが、分裂の動きについて会社側が、それまで全く知らなかつたとするならば前述の如く強力なる組合を抱える企業として、新組合に如何に対処すべきか、会社幹部において相当に議論さるべきが当然であると考えられるのに僅か一〇分足らず、しかも会社重役は松田労務担当重役のみの出席の場で新組合と団交に応じることを決定するが如きことは、通常考えられないものというべきで、第三組合との関係についても右はそのまゝ妥当する。以上の事実に加うるに、後記分裂後の会社側の支部組合への組織攻撃等を斟酌して考えると、勿論支部組合の運営において、少数意見の尊重、経済要求の最優先といつた面に、欠けるところがあつたことは事実であつて、これらが分裂の一要因をなしたことは否定し得ないけれども、主として会社側の支部組合弱体化対抗策の一戦術として積極的な分裂工作が展開された結果、右のような分裂が起つたと見るのが相当であり、前記梶山、松田各証言は右事実に照らし措信しない。
第四、分裂後の会社と組合の動向及び三五年春斗
分裂によつて組織破壊の危機に見舞われた支部組合は三五年を迎え、従来の会社に対する攻撃的経済斗争から組合員の山労への脱落の防止、会社側による山労への加入換の勧誘等の不当労働行為の監視・摘発といつた組織防禦に組合活動の重点を切り換え、守勢に立たされるに至り、一方、新生の山労は会社の援護下に組織は拡大の一途を辿り昭和三五年五月当時、六百余名に増加し、完全に支部組合とその所属従業員数において相半ばする勢力を獲得した。
この間、小野田営業課の池田課長が支部組合員の家庭を訪問して、山労への加入換を慫慂し、その足で宇部市のキャバレーに行くに当り、運転免許停止中でしかも、飲酒していた山労所属の組合員松原運転手に社用の乗用車を運転させた。このとき松原運転手は運転を誤り右営業所の車庫に突き当て毀損する事故を起し、会社側はこれを支部組合員の所為によるものと誤認して、告訴したが事実が判明するや右告訴を取下げたいわゆる池田松原事件、山電正明市の職場で自ら中心となつて山労加入を積極的に推進していた深谷操車係が宿直の際、女子高校生を一緒に泊らした深谷事件、同じく山電特牛の職場で山労への加入勧誘を積極的に行なつていた奥村操車係が勤務中、飲酒したという奥村事件、これら事件に対する会社側の不処分、乗務員の出退勤の取締りや、乗務員の労働条件に直接関連を持つ運番の決定に参画する電車課の松野運転掛り(昭和三六年春斗時支部組合副委員長)を事務職(遺失物管理)へ配転しようとする松野配転問題、新入従業員のうち支部組合に所属する者に対する正式採用の遅延等の諸問題が相次いで発生し、支部組合側は、これらを会社側の組合への支配介入を内容とする不当労働行為であるとして地労委に提訴して争うと共に会社側に対し池田、松原、深谷の解雇、奥村の配置転換を要求、この問題は、更に、昭和三六年に持越され、昭和三六年春斗における三要求の一つの柱として紛争の因子となり、このような会社側の露骨な支部組合への組織攻撃の前に支部組合員の反感はつのり会社と支部組合との関係は悪化するばかりで、労使の正常な関係はしだいに失われていつた。
かかる中で、支部組合は、昭和三五年四月以降の賃金値上要求額を二、〇〇〇円と定め、同年二月会社側に提示し、山労は支部組合より約一ケ月遅れて同じく一、三〇〇円とする要求額を提示、会社側は両組合と並行して団交を進め、同年四月二五日山労と会社側は同年四月以降の賃金値上げを一、二二〇円とすることで妥結したが、支部組合は同年四月一三日右池田ら四名の懲戒処分に関する件を賃金問題と並行して団交するよう申入れ賃金値上げについても山労の提示した一、三〇〇円の壁を破ることを目標とする態度を固持し、同年三月二九日から四月七日までの指名ストを第一波とし、五月二〇日の第五波まで逐次貸切乗務拒否、公休出勤拒否、時間外勤務拒否等十数種に上る柔軟争議を行い、要求貫徹を計つたが、山労と既に妥結した会社側の壁は厚く、その妥結額一、二二〇円の線を堅持してゆずらず、妥結の見通しは容易に立ち難い状況下にあつた。このような状態をひかえ、支部組合は同年五月一八日その傘下全組合員による時限ストをうち、総決起大会を開き、遂に会社側に対し五月二二日午前零時を期して、無期限全面ストライキを行う旨を通告、会社側もまたストライキ中における山労の就労の約束を取り付ける一方、五月中旬頃争議対抗策として車輛を所定の車庫に格納せず予め会社が予定した第三者所有地や道路上に移動させるいわゆる車輛分散を計画し、他方私鉄総連においても、前記の如き会社側の支部組合に対する激しい組織攻撃に加えて、分裂後初の争議ということで事態を重視し、本多副委員長、赤出、篠原両中執委を支部組合に派遣し、争議指導に当らせ、日を追つて労使双方の激突は、もはや不可避の状態となつた。
かくして、五月二〇日頃に至るや、支部組合が同月二一日から約二、〇〇〇名に上る支援労組を動員する旨の情報をキャッチした会社側は、同日より支部組合が車輛確保行為に出ることは必至と判断し、先手を打つて同日午前七時頃まず山電彦島営業課に車輛分散を指令したが、支部組合の察知するところとなつて右車輛分散は支部組合によつて阻止せられ、これをきつかけに同日午前一一時頃から支部組合は全面的な車輛確保に着手し、同日午後七時から無期限全面ストライキに突入、二六〇台のバスのうち二二〇台を確保して、会社東駅車庫、修理工場、小月営業課車庫用地、小野田営業課車庫に格納し、スト期間中支援労組千数百名の応援を得て、車庫周辺にピケットラインをはり、会社側によるバスの運行を阻止し、(以下車輛確保戦術とは上記の如き態様の業務阻止行為を指称する)絶対的な優位に立つた。右の如くして山電の三五年春斗は、支部組合の優勢のうちに展開されたが、労使の交渉は進捗せず、二、三日成り行きを静観していた地労委も一般市民の蒙むる迷惑を考慮し職権斡旋に乗り出し、労使双方の事情聴取を始め、五月二七日午後一一時頃、翌二八日正午迄の諾否回答の期限を付し左記斡旋案を提示した。
斡旋案
一、賃上げについては会社回答額一、二二〇円(自動昇給を含む)に一三〇円を加算すること、配分方法については、別途労使協議して決めること
二、今次争議は、昨年末の組合分裂以来、不正常化した労使に関係起因するものとも思料され、憂慮に堪えないところである。この際、労使双方相協力して労使関係正常化のため努力されるよう切望すると共に、特に今次、争議解決のためさしあたり次の措置をとること、
(1)組合が要求している四人の懲戒問題については、会社は就業規則、並びに労働協約の条項に照らし、客観的に納得出来るよう善処する。
(2)組合は、さきに山口地労委に提訴した不当労働行為事件を取り下げる。
会社組合共に、今次争議に関しての事項については直接と間接とを問わず一切の責任を追求する態度をとらないこと。
右斡旋案の提示を受けた労使双方は、多少の迂余曲折はあつたが結局、これを受諾することを決め、いずれも、右回答期限までに受諾の意志を表示し、三五年春斗は、一応終りを告げ二八日午後一時から運行再開の運びとなつた。
第五、三五年春斗以降三六年春斗までの会社と組合の拮抗
三五年春斗は右に述べた如く、地労委の職権介入によつて幕を下したが、地労委が斡旋案を強く希望した労使双方の努力による正常化はその後も見られず、会社側は支部組合の右争議によつて企業収益が悪化したと称し昭和三五年六月から賃金のうち八〇%だけをその月に支払い、残り二〇%を翌月五日に支払うといういわゆる賃金遅配策(ちなみに昭和三六年春斗後においては遅配問題を生じていない)を打出してきたが、支部組合の強い抗議と、賃金遅配に対する従業員の不満更に三五年春斗における支部組合の山労を上回る賃上げの成功とが原因となつて会社の支部組合弱体化への思惑に反し、同年七月から一一月にかけ山労員六、七〇名が、支部組合に帰属するという現象が現われたため、八、九月頃会社側は遅配を取り止め、この間題は自然解消するに至つたが三五年春斗終結の翌日三五年五月二九日大賀山労副委員長、末広山労員が、勤務時間中、飲酒の上、争議のしこりがからみ支部組合員数名に暴行を振う事件が起り、右両名は罰金刑の有罪判決を受けたが、会社側は前記斡旋案中の「今次争議に関して直接間接とを問わず一切の責任を追求する態度を取らない」ことを楯に右両名を不処分扱いとした大賀、末広事件、また同年九月山電彦島営業課において、従来、営業課長、操車係、整備班長の三者協議で新たに配備された自動車について担当運転者を決定していた慣行を覆えし、支部組合員であつた上村整備班長を排除し、営業課長と操車係の話合いでその大部分の自動車を山労員に割当て、また支部組合の役員をしている従業員には、組合役員としての仕事があり運転手として専従し得ないことを理由に特定の担当車を配車しなかつたに拘わらず、山労大賀副委員長には新車を担当車として配車するという事件が起こり、支部組合側はこれを不当差別扱いであるとして取り上げた彦島配車替事件、三五年春斗で問題となつた松野配転問題は前記斡旋案において棚上げとなつたが、会社側は右と同じ頃、再びこの問題を提案し、また同斡旋案で池田ら四名に対する客観的に納得される善処を要望された会社側は、ようやく同年七月二日池田に対し日額二分の一減給(三五年七月分給与のうち約八〇〇円の減給となる。)松原に対し職能給一号降下(実質月額3.400円の切下げとなる。)深谷、奥村両名に対し遣責の各処分という案を支部組合に提示したが、支部組合は検討の余地なしとしてこれを拒否すると共に地労委に対し再斡旋を申し入れたが、地労委は人事問題不介入の方針に基き、斡旋案を出さないことを決定し、労使双方も互に譲らず、支部組合は、この池田ら四名の処分要求、松野配転の取消要求、彦島配車替を従前の例に戻せという要求を三要求と名付けて同年一〇月頃から当面の主要斗争目標として掲げ、実力による対決へと動き出し、未解決のまま年を越すこととなつた。
この間、会社側は公職選挙法違反、窃盗罪に問われ、懲戒四月執行猶予三年の判決を受け、且つ三五年安保反対統一行動の時限ストに参加した支部組合員秋田、同じく公職選挙法違反等で罰金五、〇〇〇円に処せられた同組合員杉野、二日酔で自動車を運転し、単車と衝突事故を起こした同組合員林、妊娠中の不正出血を月経と誤り生理休暇をとつた同組合員峯松を生理休暇の不正使用として、いずれも懲戒解雇とする案を支部組合に提示したが、右池田らの処分と比較し納得し難く、これらは不当解雇であるとして、支部組合と新たな紛争原因を生じたほか、会社側は入社の際の保証人を通じ、或は職制を介し、また金銭の貸与を条件にするなどの手段を構じて山労への加入を勧誘(ちなみに分裂した昭和三四年一二月から四一年一二月末まで新規雇傭従業員六百余名のうち支部組合に加入した者は数名である。)そのほか、支部組合員、山労員を労資協調を謳う修養団或は三田村学校への派遣による思想教育、車掌から運転手登用における山労員の優遇など陰に陽になされる山労員と支部組合員の差別取扱等支部組合弱体化を目指すとしか考えられない労務政策が着実に推し進められ、一方支部組合も彦島配車替事件に対し、抗議集会を開き、また池田ら四名の処分要求貫徹のため三五年一〇月一〇日組合員五五三名中四六三名の賛成でスト権を確立、一一月五、六の両日女子車掌の貸切り乗務拒否等数種の柔軟斗争を皮切りにパンク修理拒否、指名ストを行なうなどの実力行使に出で、三五年春斗後の支部組合対会社・山労間は、労使双方の正常化への努力はおろか、かえつて互に攻撃的態度にいで、その間柄は悪化の一途を辿り、果ては抜き難い不信の念、憎悪の感情すら芽生え始めた。
このような中で、支部組合は三五年一二月九日一四項目の改訂要求を含めた労協締結の提案をし、同月中にはスト権を確立して強固な決意を示し、会社側は年を越した三六年一月一〇日一〇項目からなる改訂案を両組合に示し、山労は同月一三日改訂要求を提示し、(両組合とも協約の期限は成立の時から一カ年但しその後二カ月間は自動的に効力を持つよう定められている。)一月二三日を皮切りに会社は両組合と並行して労協改訂の団交を始めた。一方同年四月一日からの賃金値上げ要求については、支部組合は同年一月二五日私鉄総連の掲げる統一要求の趣旨に従い、四、〇〇〇円(定昇を除き一律一、五〇〇円、二、五〇〇円は各人の基本給に比例して配分)を、山労はこれより遙かに遅れて三月一四日二、三〇〇円(定昇を含む)の賃上げ要求を提示、三月下旬から労使双方賃上げの団交が開始され、四月二七日会社側は、運行時分のスピードアップと経費節減についての協力という附帯条件を付し、定昇三〇八円を含む二、〇〇〇円の回答を示した。これに対し既に三月頃賃金値上要求に就いてスト権を確立していた支部組合は全面的にこれを拒否、一方スト権確立に関しては元々問題としていなかつた山労も附帯条件が付くのなら二、三〇〇円プラスαが必要としてこれを拒否し、五月六日地労委に対し調停の申立てをなし、会社側も同月四日地労委に対し山労を相手に、同月九日支部組合を相手にそれぞれ調停を申請した。これに対し地労委は直ちに調停の作業にかかり、同月二一日会社側と山労に対し、予想に反し、山労の要求額を上回る二、七〇〇円プラス金一封、但し組合は会社提示の附帯条件に協力する旨の斡旋案を示し、会社側は翌二二日直ちに、山労側は同月二六日と相次いでこれを受諾した。
しかし、支部組合は労協の問題が未解決であるところから、賃金問題だけ切離して解決するとの措置には応じられないとして地労委の事情聴取にも出席せず事実上調停を拒否する態度を示し、斡旋案提示後も、当時既に発足している後記統一指導委員会は山労の要求を上回る斡旋案の提示をみながらも、会社との一切の懸案の問題を解決して、正しい労使の慣行を作ろうと努力しているところであるから地労委は手を引いて欲しいと回答し、これを受諾しなかつた。
ところで、一月二三日を第一回目として支部組合と会社側が団交を始めた労協改訂における双方の主要改訂条項は左記のようなものであつた。
一、会社案
(一) ユニオンショップ条項の削除
これは今まで支部組合と結んでいたユニオンショップ条項は支部組合が現在少数組合(三六年四月末四八八名)となり山労が多数組合(同七六〇名)となつたので山労とだけショップ条項を結び支部組合とは締結しないというもの。
(二) 懲戒処分における組合の同意権の削除
これは従来、懲戒事案については労使双方で構成する懲戒委員会において意見が纏るまで協議し処分を決めるというのを、今後は四カ月間を最長審議期間として協議し、その期間中にまとまらないときは会社がこれを決する。懲戒事案が解雇に該当する場合は、決定に至るまでの期間を自宅待機とし、その間一日につき基本給日額の五〇%を支給する。というもの。
(三) 運行時分の改正、ダイヤ編成について
これは、電車、バスの運行時分については組合の意見を聴取して会社の判断でダイヤを編成しまた改正実施出来るようにするというもので、会社側が自由にスピードアップしたダイヤを組むことが可能となる。
二、支部組合案は
(一) 自動車の運転手への配車(担当者)の決定実施は、会社と組合の代表者で構成する配車委員会を設け、これが行う。
(二) 自動車のダイヤ改正は会社と組合の代表者からなるダイヤ委員会で協議決定する。
(三) 業務上の事故で司法、行政処分により罰金に処せられた時には、その金額は会社の負担とする。
(四) 業務上の事故に対する社内における弁償金制度は廃止する。
(五) 車掌の売上金不足金弁納の制度は撤廃する。
等で、いずれも労働条件に関するものであり、これら改訂条項をめぐつて労使は正式の団交七・八回重ねたが妥結点を見出せず、会社側梶山労務課長を中心に、波多野事業、平田資材、川本教養各課長、浜野労務係長、支部組合側楠本支部組合委員長、松野同副委員長、篠原同書記長、福永同組織部長で構成する小委員会を設け、二十数回にわたり会議を開き、双方の対立点を煮つめ、協議を進めたが、会社側はダイヤ編成、ショップ問題、懲戒条項に限つては(特に懲戒条項について)会社案を固持し一歩も譲らず、他方支部組合側もことは組織防衛に関する重要事項であるとして一歩も引かず、交渉は難航に難航を続けた。このため支部組合は二月二二日再度の労働協約の失効を懸念し、双方改訂案を出していない部分については、交渉の対象にならないから、失効の時から更に二カ月の自動延長を行い、その間に誠意をもつて双方改定をまとめようという提案をなしたが、会社側は翌二三日、労働協約は各条項が相互に関連をもつて全体として不可分の一体となり労使関係を規律するものであるとの見解を示し「現行協約(三四年一月二四日調印のもの。)を部分的に分けて、改定の申入れなき部分のみを分離し、効力を延長するという考え方には賛成出来ません。」として「現行協約は二月二三日をもつて全体として失効の余儀なきに至るものと解せざるを得ません。」と回答した。このような強硬な会社側の態度、また、団交の席上会社側が示した「双方が無協約という形になつて始めて交渉も進展し、早く協定ができる。」との見解、従来団交の席には殆んど欠かさず出席していた松田労務担当重役が、今次団交では余り姿を見せないことなどから、支部組合側は、会社側が無協約状態を意図的に作り出し、山労とのショップ条項を楯に支部組合員の解雇をほのめかし、支部組合員の心理的動揺を誘い、組織をゆさぶることを狙つた高等作戦であると判断し、組織の強化を呼びかけると共に、益々会社との対決の姿勢を強めていつた。
他方山労は(一)懲戒権については別に解雇制限のための解雇基準を設ける。(二)ダイヤ編成については路線調査に組合からも参加し、ダイヤ改正に意見を述べることが出来る。といつた程度の修正で二月二八日会社提案を呑み、三月一七日妥結、調印した。
このように、山労との正式調印に成功した会社側は支部組合とのその後の交渉においては、山労と同一の労働協約の締結を主張して支部組合に強く迫り、支部組合は苦境に立たされ、また三五年一一月一名、一二月二名、三六年一月三名と小康を保つていた支部組合からの脱落者が、二月には二〇名という三五年五月以降最高の数を示し、翌三月には一三名と相次ぎ、組織崩壊の危険さえはらんできた。このため支部組合はその頃県労評枝村議長、支部組合篠原書記長ら数名を私鉄総連本部に派遣し、現状を報告させ、「このままではじり貧に墜つてしまう。従つてこのあたりで会社に対抗する必要があるので総連の、もう一度直接指導の下に支部組合にストライキを打たせ、抵抗行為をやらして欲しい。」との趣旨の要請をなさしめると共に、失効後も、何とか有利に交渉を展開すべく試み、懲戒条項について「解雇については従来通り協議決定とするが、他の懲戒については協議が整わないときは第三者の裁定で処理する。」との修正案を提示したが、会社側は、懲戒条項について会社案に同意しさえすれば、もう一つの重要懸案のショップ制については山労と同一のものを締結してもよいと答え、こと懲戒条項に関する限り微塵も譲歩の色を見せず交渉は完全に行き詰り、四月末頃からは団交も行なわれなくなつた。
ところで、既に述べたように支部組合からの支援要請を受けた私鉄総連では、昨年大争議を行なつたばかりではあるし、分裂組合として多少の譲歩をしても今回は平和的に解決すべきであるとの基本方針でこれに臨んでいたが、度重なる支部組合からの訴えで事態を重視し、四月一八日開催の第六回中央委員会で支部組合の春斗の経過について特別報告をなし、(一)会社は依然として差別待遇、分裂援助、威嚇戦術を中止していない。(二)現在のままでは組織的にも後退しじり貧になる虞れがあると同時に、私鉄総連としても三五年斗争支援の結果を的確にする必要があり、他の分裂組合に及ぼす影響も大きいので今次春斗の特殊組合として重点労組に取り上げたい。(三)山電問題は山口県下の労働運動に大きな影響をもつており、宇部窒素、興炭労、山電の斗争が不可分の関係にあり、第二地区労、第二総連の結成の動きに無関係でなく、地区労、県労評からも強い協力の要請があつている。(四)二、三の支援オルグによる技術的指導では解決出来ない状勢にあると現状を分析し、山電対策の基本的考え方として、(一)第七回中央委員会で具体的方針を明らかに決定する。(二)私鉄総連本部の指導の下に賃金労協の重要問題を解決する。(三)このため私鉄総連委員長以下本部中執委を中心として各地連(西日本を中心とする。)三役の協力を得て統一指導部を結成し対処する。(四)私鉄総連は五月初旬より先発オルグを常駐せしめ、地区共斗、動員、組織固めに当る。(五)各地連特に西日本地区所属の地連、組合に協力を依頼し、決戦期において大規模のオルグ派遣を成功せしめる。(六)対決の時期を五月下旬とする。(七)斗争財政は単組、地連、総連の協力でこれを強化し、統一指導部の管理下におく。ことなどを明らかにし、和戦両様の準備を整え、全面的に支部組合支援の方針を打出し、五月一〇日栃木県那須温泉で開かれた第七中央委員会で次のように具体的対策が決められた。
一、斗争目標
(一)賃金斗争は山労との関連もあるが、すでに解決した組合、近隣の他支部の関連を考慮し、有利な条件で妥結できるよう指導する。
(二)労働協約斗争は無協約を排除し、速かに協約を締結せしめる。このため未解決の中心であるショップ条項、懲戒条項、ダイヤ編成権などの主要条項の原則をとりきめる。この際ショップはオープンとすることとし、他の条項については私鉄総連、支部執行部で決定をみている原則の獲得を図る。
二、具体的方針
統一指導委員会の設置について
この斗争は私鉄総連統一斗争の一環として行なうものであり斗争指導はもとより、組織、宣伝、財政全面に及ぶ管理指導を総連が行ない、このため、指導委員会を設置し、単組の諸機関をこの指導下に入れる。
(一)委員指導会は総連本部三橋副委員長を責任者とし、中執委、各地連代表、私鉄中国、支部組合、山口県労評、下関地区労、山口県交運代表で構成する。
(二)指導委員会の中に必要に応じて戦術委員会を設ける。
(三)本部オルグは五月一七日より活動開始、実力態勢を背景に最後団交に入る。
(四)第一回現地指導委員会を五月二〇日一〇時より現場で開催する。
ことを骨子とし、そのほかピケ隊動員、財政対策等もすべて統一指導委員会の管理指導下におく異例の措置(ちなみに統一指導委員会の設置は私鉄総連としてはこれが最初である。)を決定し、山電斗争に真正面から取組むことになつた。一方私鉄中国においても五月一六日第五回拡大執行委員会を開き、支部組合の斗争について協議し、七中委の方針を確認し、それに従い、同日から直ちに協力態勢に入つた。
このようにして、私鉄総連では、はじめての統一指導委員会方式によつて山電問題に取組むことになつたが、七中委では、当時山電と同じように分裂し、交渉が行き詰つていた傘下の越後交通についても同じ方式による斗争を同時に決定し、越後交通に関しては、今まで私鉄総連の指導下で争議を決行したことがないところから、今次は全面ストライキによる対決も止むを得まいとの判断に立つていたが、支部組合については、既に述べたように前年大争議を行なつたばかりではあるし、加えて争議ともなると、約一千万円の資金が必要であり、当時の私鉄総連の財政事情からは同時に二つの争議を行なうことは容易ではなく、出来うれば平和的に解決すべきであると判断し、七中委の決定に従い三橋副委員長が下関に出発するに当り、その前日堀井委員長、佐藤、三橋両副委員長、安恒書記長の三役会議を開き、
(一)徹底的に平和解決を目指し、出来得る限りの譲歩をして収拾をはかること。
(二)どうしてもストライキを避け難い状勢となつても、現地の判断でストライキ突入の決定はしないで、委員長か書記長の来関を求め、最終的な態度決定をすること。
の二点を固く申し合わせ、三橋副委員長、赤出中執委、内山組織部長らは相次いで出発し、五月一七日から二〇日にかけ相前後して下関市に到着し、五月二〇日予定通り、三橋副委員長を議長、枝村県労評議長、香山私鉄中国委員長の両名を副議長、内山組織部長を事務局長とし、戦術、共斗、情宣、弾圧、財成の五委員会からなる統一指導委員会を結成し、支部組合事務所に事務局を置き、第一回統一委を開き、戦術委をもつて団交の対策、争議時の戦術決定を行う最高機関とし、議長、副議長、事務局長、支部組合三役をこの構成メンバーに当て、翌二一日統一委を通じて私鉄総連に交渉権、妥結権、スト権の、いわゆる三権の委譲を受け、同日から統一委は戦術委員で、会社側は、松田常務をはじめ各部長、課長数名で構成する後記交渉委員で四月末以降中断していた団交を再開し、前記三要求、労協、賃上げ、不当解雇の問題について、連続徹夜で妥結点を見出すべく交渉が続けられた。これに先立ち戦術委では懸案の諸問題について次のような基本的態度を決め、団交に臨んだ。
(一)賃金斗争については、山労と会社側は二、七〇〇円で妥結しており、支部組合では一応四、〇〇〇円の要求を掲げてはいるが、目標は三、〇〇〇円でその差は三〇〇円であるからこれは大した問題ではない。(二)松野配転問題については会社側は強行はしないであろう。(三)池田ら四名の処分要求については、当初、支部組合は組織防衛に関する非常な重要問題として後退することを頑強に拒んでいたが、三橋ら私鉄総連派遣の幹部は現在のように山労という第二組合を抱えた状勢下では、山労の育成のために一生懸命忠実に励んだ職制を会社側が処分するはずがなく、処分要求は無理である、現段階では交渉の平和的妥結のためには要求を退けるべきだと説得し交渉議題から一応落すことにする。とこのような基本的態度をきめ、精力的に団交が重ねられたが、双方の主張は並行線を辿るだけで、同月二四日頃には、交渉は完全に暗しように乗り上げ殆んど何らの進展もみないようになつた。
かかる困難な状勢を迎えて事態の打開に苦慮した三橋、内山は団交に出る戦術委のメンバーのうち支部組合の三役を落した三橋、内山、香山の三人と会社側も松田、長沼、加藤、田辺四常務によるいわゆるトップ交渉の提案をし、以後団交はトップ交渉の場に移され、ようやく諸問題は次第に整理され、賃上げについては山労と妥結したものと同一のもの、松野配転は、松野が組合役員をしている間は行なわない、四名の処分要求は、別途話合う、不当解雇については、秋田、杉野、林に関しては、地労委の裁定をまち、峯松の問題については、解雇以外のもので処理する、ショップ制については、山労と同一のもの、配車についてはその権限が会社にあることは認めるが、配車基準を設ける、という線でほぼ双方了解点に達した。しかし、懲戒同意約款の廃止、運行時分の問題、殊に懲戒問題については会社側の態度は強硬をきわめ会社案通りを主張して譲らず、どうしても了解点を見出すことが出来ず同月二五日夜に至ると三橋らは、交渉決裂も、もはや止むなしとの判断に立つたが、最終的決定は現地だけでは行なわないとの前記方針に従い翌二六日三橋は私鉄総連本部に電話を入れ安恒書記長に対し「種々団交を重ねたがどうしても重要項目であるダイヤ編成権をめぐる諸問題が解決しない。すでに会社側は自動車の分散を行なつたり、バリケードを築く等、ストライキ体制を敷きつゝある。われわれ両名(三橋、内山を指す)としては、ストライキに突入せざるを得ない状態が来つゝあると思う、そこで直接本部から委員長なり書記長が来て現地の状況を見てほしい。と同時に最終的な努力をわれわれもするつもりであるから書記長も加わつてひとつ最後の平和解決の努力をしてくれないか」との趣旨の報告をなした。
右の連絡を受けた安恒書記長は、堀井委員長と私鉄総連としての最終態度を打合わせ、直ちに飛行機でかけつけ同日夜下関に着き直ちに戦術委全員を集め、まず「組合が分裂している今日の現実を直視したとき、山労以上の条件がとれないことについてはあきらめるべきである。但し懲戒同意権、ダイヤ編成の諸問題等については、そのことを許すことによつて組合が致命的な打撃を受け、組合そのものが壊滅するからかかる問題については、基本的に頑張らなければならないが、それ以外の問題については大きく譲歩してでも平和的に解決したい、これが私鉄総連の方針である」との説明をした。ところが既に統一委も出来たし、後記支援態勢も整つたし、この際差別対遇、その他の諸問題で会社側からいじめ抜かれていたのを一挙に解決したいと主張して士気があがつていた支部組合側委員は強くこれに反対して紛糾したが、数時間論議の末、ようやく安恒らの説得が成功し、夜を徹して未解決の懲戒同意権、ダイヤ編成権について最終提案の作成にかかり、
一、ダイヤ編成権は会社側にあることを認める、但し編成の結果では労働時間、労働条件に、いろいろ影響を与えるので組合と協議してもらいたい、組合との間で話がつかない場合は私鉄総連が解決を保証する。
二、懲戒については、解雇とそれ以外の処分に分け解雇を除くその他の処分については会社案通りでよろしい、解雇については四カ月間労使双方で協議し、協議がつかないときは、労働委員会等第三者機関の仲裁にまかせる。
との線で案をまとめ翌二七日午前三時頃団交の申入れをすると共に決裂の場合は「私鉄総連本部の特別指令に基づき左の如くストライキを実施するので通告します①五月二八日午前零時以降全面無期限ストライキ②但し貴会社が車輛の分散、疎開等実質的にストライキの妨害行為を行なう場合は、対抗措置として直ちにストライキを行う旨を合せ通告する」という内容の山電労発第七八一号の文書を手渡し、翌二八日午前零時を期して無期限全面ストライキに突入する旨を伝えた。
右のような経過をへて午前四時頃から三橋、内山は安恒書記長も交えて、右最終案を提示してトップ交渉が開かれ、ダイヤ編成問題については、私鉄総連が保証するならばということで、了解点に到達したが、懲戒同意権の問題についてはどうしても折合いが付かず、三橋らにおいて、会社側に対し懲戒問題について若干でも譲歩してほしい、又会社の別の案があれば提案してくれと要求し、交渉の焦点をしぼつていたが、午前六時頃、会社側は協議のため交渉を打切り、午前一一時すぎ頃、次のような回答を示した。
一、懲戒同意権の問題については会社案通り。
二、ダイヤ編成の問題については組合提示の最終案に応じる。
三、配車問題はトップ交渉における了解の線で了承する、配車基準については組合案の勤続年数、免許取得後の年数、事故回数、出退勤状況の外、諸規定の遵守という項目を入れ、これは労働協約でなく就業規則で規定すること。
四、池田ら四名の処分問題はすでに会社側が決定しているので、そのまゝ認めてもらいたい。
五、林の処分については地労委の裁定にまかせてもよろしい、杉野、秋田については、会社の原案通り、峯松については解雇以外の処分を前提に事情調査の上処分決定。
六、松野配転については組合三役在任中は行なわない。
七、賃上げについては、地労委斡旋案の二、七〇〇円以上は出せない、金一封は両組合と交渉して今後額を決定する。
これに対し、三橋らは懲戒同意権の問題についてもう一度再考の申入れをしたが遂に会社側はこれに応ぜず、午後一時頃、梶山労務課長から、支部組合は現にストに突入している、従つてこれ以上交渉の余地はないとの最終通牒が発せられ、これをもつて完全に平和解決の途はとだえ、交渉は決裂し後記のように支部組合は実力による解決を目指し、その頃から無期限全面ストライキに突入した。
第六、会社、支部組合の争議対策
一、一般的な対策
三五年春斗で会社側は山労の全面的協力を得、スト突入と同時に山労員を旅館に宿泊させ、業務遂行を計りながら準備不足のため所有車輛の九割を支部組合に確保され、殆んど業務はストップし山労との妥結額を上廻る賃上げを余儀なくされたことは既述の通りであるが、会社側はこれを車輛確保の失敗による敗北であると評価し、更に山労の育成と支部組合弱体化のための諸方策を推し進めると共に、争議対策を練る最高機関として、三六年初頭から松田常務を最高責任者とする長沼、加藤、田辺の各常務、川本教養、長宗電車、大屋会計、波多野事業、安成運行、柘植業務、平田資材、梶山労務各課長を構成メンバーとした交渉委員会を発足させ、毎週一回定例会議を開き、日常業務の進行処理及びその頃支部組合が実施していた三要求斗争に対する対策等を議題として論議し、既に同年二月中旬には懲戒同意権をめぐつて労協交渉は決裂するとの見通しを立て、三五年春斗のテツを踏むことのないように争議対策の具体的方策の立案準備にとりかかり、五月に入ると、今までの団交の経過、私鉄総連の乗出し、大規模の共斗計画の情報の入手等からスト必至と判断し、総括者を松田常務と定め、交渉委のメンバーを主体として、会社の総力を挙げ左の争議態勢を敷き、具体的な対抗準備を整えていつた。
すなわち、移動隊担当―平田、波多野両課長、車輛分散担当―安成課長、拠点防衛担当―金岡土木課長、電車関係担当―長宗課長、給与、宿舎担当―服部厚生課長、情宣担当―波多野、川本両課長、渉外担当―田村総務課長、団体交渉担当―梶山課長を任命した。
このように、会社の組織を争議態勢に組み替えた会社側は五月二〇日頃(当時山労と会社間の賃上げ交渉は妥結していないが争議状態もなかつた。)正式に山労に対し、支部組合争議期間中の就労を要請してその承諾を取付け、その頃交渉委は山労三役と争議対策についての打合せ会を開き、席上後記争議心得(全文)を配布し、会社側としては、これに従つて争議対策を推進したいと説明し協力を要請、山労側としては、一旦これを組合に持帰り執行委員会において討議した結果、強行就労と暴力に訴えるような車輛の確保には応じられないが、その余の点については協力するとの態度を決定し、その旨会社に回答すると共に指令第一号を発し山労員にその旨を伝え、会社側もまた後記争議心得(省略文二)を作成し、各現場営業課長を通じて山労員八〇%程度に行き渡る枚数を配布し、車輛分散の具体的手段については、後記自動車部課長会議の結論に従い、各営業課において、その実情に合つた方策を取ることとした。
右のようにして、車輛分散、要員の確保態勢を整えた会社側は五月二三日頃から山電本社周辺で下請業者と山労員を動員して既設の塀や柵を高くしたり、有刺鉄線を張つて、補強し、同月二五日頃からは更に柵の新設作業にとりかかると共に、東駅、彦島、小野田各営業課、鳥居前車庫、山陽自動車学校(後記分散予定地)などに有刺鉄線を使つた柵を構築し、更に車輛分散確保後の車輛警備のため下関市の湊組、浜本組をはじめとするいわゆる暴力団を雇い、また愛国青年同志会と称する右翼の協力を得るなどの、度を逸した対策手段に訴え、下関警察署長名でかかる者の雇傭を中止するよう勧告を受ける事態すら起つた。
この外、山労員を四、五名の班別に分け本社、各営業課、車輛の分散地の拠点防衛のための配置計画書を作成し、或はスト突入後の山労員の待機、宿泊のための旅館を予約するなど支部組合が斗争宣言を発する前に万全の態勢を整えるに至つた。
二、特別対策
(一)車輛分散計画とその実施
車輛分散計画の責任者となつた安成運行課長は、既にそれに先立ち三五年末頃自ら中心となつて各営業課課長をもつて構成する自動車部課長会議を設け、毎週一回定例会を開き、三五年春斗の経験に照らし、支部組合側の車輛確保戦術の展開を阻止し、会社側が有効に車輛を確保する手段、方法について意見を交換、討議し、三五年春斗の際下関市内や郊外営業課から比較的近い処に無警備の状態で分散し、支部組合に次々と車輛を確保された経験に基づき、第三者の所有権、管理権下にある場所に預ける方法による車輛分散を行なえば、支部組合も容易にかかる第三者の支配地域に立ち入れないし、まして車輛を運び出し確保することも出来まい、との判断から、これを分散の基本方針として決定し、如何なる場所に何時預けるかという具体的方法については各営業課において、それぞれ地方住民の協力の程度等を勘案し、実情に合つた手段をとることとし、その具体案は五月中旬頃の右会議で集約され、その頃交渉委員会でも了解を得た。
こうして、下関市内では、下関ジーゼル、山陽自動車学校、長府日産ジーゼル、日本食糧倉庫、竹ノ子島(漁協敷地)、郡部では小野田の第二藤山炭鉱、新栄炭鉱、豊田前町山陽無煙炭鉱、小郡民生ジーゼル、山口日野自動車、更に遠くは北九州市若松貯炭場等が分散地として選ばれ、使用料を払つて土地を借り、また、事情を話して預かつてもらうことにし、郊外営業課では課長が地元民に協力を求め、條山、吉田、室津、特牛、矢玉、西市等においては、消防団或は地元有志の協力を得て、それぞれ地元民の支配する特定の場所が分散地として決められた。
こうして、五月二五日を迎え、支部組合の動きがにわかに活発になり、その夜からでも支部組合が車輛確保に着手するのではないかと懸念した安成運行課長は、午後五時頃各営業課に警戒態勢に入るよう指令を出すと同時に、貸切りとして出ていた車輛の帰るのを待ち受け、若松貯炭場へ一五輛分散させたのをはじめとして、小郡民生へ五輛、山口日野へ二輛、第二藤山炭鉱などへ一二輛、自動車学校に二〇輛を分散し、翌二六日朝には分散先から一部車輛を営業課に戻し、日常の運行に使用、同日夜には、前日より多数の車輛を分散し、この時点でほぼ日常の運行に使用しない予備車輛の分散を終り、分散先ではハンドルにチェンをかけ、チェンジレバーを外し、タイヤの空気を抜き或はタイヤを外し、エンジン部品の一部収去を行い、地元民、山労員、暴力団による警備を実施するなど万全の策をほどこし二七日は一部路線に欠行が出る程であつたけれども、同日支部組合のスト突入に当つては、分散は予定通り山労員によつて予定の分散地に運ばれ、会社側はほぼ計画通り二六五輛の現有車輛のうち一三八輛を確保することに成功した。
(二)移動隊について
移動隊の責任者波多野、平田両課長は、平田課長が主となつて、先の交渉委員会と山労三役間の協議の線に基づき、会社側の車輛分散の援護、分散確保した車輛の防衛、支部組合側の不当争議行為があつた場合、集団で行つて警告することを目的として各営業課から山労員八〇名を選び、五月二五日午後七時頃別館に集め、大賀山労副委員長を隊長とする二個小隊からなる部隊を編成、指令はすべて平田、波多野両課長が大賀隊長の助言を求めて大賀隊長に発し、それに基づき、大賀隊長が隊員を指揮する、という基本方針を確認し、これを従前の紙上計画で機動隊或は防衛隊、移動隊と称していたものを正式に移動隊と命名、機動力を発揮するため、バス三輛を部隊用として備え、二六日夜も別館に待機させ、スト突入に備えた。そして、二七日午前中、山労援助のため広島電鉄、石見交通の各労組(第二組合)からオルグとして来関していた約四〇名を新たに移動隊に加えてこれを第三小隊に編成し、正午すぎ彦島営業課で支部組合の車輛確保が始まつたとの連絡を受けるや、直ちにバス三台に分乗して、その阻止のため彦島営業課にかけつけ、同営業課所属バス四輛を竹ノ子島に分散するのを援助し、更に国鉄下関駅前営業所のバス二輛を自動車学校に分散するのを援護するなどの活躍をなし、同日夜は日食に預けたバスを支部組合側が確保移動させるとの情報で直ちに出動、また夜一〇時三〇分頃豊浦郡室津で地元民と支部組合がバスの確保をめぐつて紛争を起こしているとの連絡で、室津に向け緊急出動し、翌日朝七時頃宿舎の下関会館に帰るなど機動力にものをいわせた活躍振りを示した。
その後、会社側は移動隊増強の必要を認め、二九日午前九時三〇分頃一旦別館に移動隊を集結、その頃情報連絡と移動隊用バスの警備のため雇つていたアルバイト学生を移動隊に編入すると共に、下関市長府に向い、長府日産ジーゼルから分散中のバス三輛を引出し、移動隊用バスに組入れ、自動車学校に向い、そこに分散車輛警備のため駐在していた山労員若干名を移動隊に繰入れ、彦島に回り、竹ノ子島で、同じく若干名を加えて小野田市に向い、そこで更に、山労員を参加させ、六小隊(一小隊は約六班、三〇名位で編成)からなる移動隊に編成替をして増強し、大賀山労副委員長を隊長とする総員約二〇〇名、バス六輛を有する移動隊が出来上つた。そして、午後四時頃国鉄厚狭駅前を出発し、下関市長府鳥居前に至り、第四小隊(アルバイト学生隊)を除いて全員下車し、同車庫でピケラインを張つていた支部組合側要員に対し、約五分間にわたつて波多野課長が車庫の占拠は不法であるから即時止めるよう警告すると共に、移動隊員らは口々に罵声を浴せて示威行動を行い、それから、同市壇の浦から新町一丁目を経由して山電本社と統一委のある東駅に回り、そこで本件中第三ゲート事件と呼ばれる事件を起こして別館に引揚げ、同夜七時ごろ同市新地町に移動し、会社が予め借りていた「明月」「住吉」「敷島」「魚久」等の旅館に分宿し、使用バスはタイヤの空気を抜き、チェンジレバーを外し、ハンドルにチェンを巻き、不寝番を置き警備に当らせるなどの措置をとつて明月旅館前路上に駐車させ、この使用バスの確保をめぐつて本件第一、第二新地事件が発生するに至つた。
(三)争議心得について
争議心得(全文)というのは次の如き文書である。
まず「前提」と題するものがあつて、それには「車輛及要員の確保が作戦行動の最大目的である。敵の日常の動勢及動員状況の的確な把握等によつて敵に先じて夫々万全の確保を期すること、即ち車輛の分散、集中と要員の集団隔離が機を失せず行われることが最も肝要である。しかし今次の敵の戦術特に事前通告無視或いは協約切れの段階では不時、不測の断片的若しくは集中的に車輛及要員奪取の事態が想定出来るのでその発生現象別に予防的、現場的対策と措置を研究する。」
と記載され、以下大きく三項目に分けられている。
一、車輛及び要員の確保
1運行の途中でロックアウトをかける場合
ロックアウトの方針を定めて具体案は別に研究準備する。
2運行の途中で敵が乗り込み奪取される場合
(イ)予防措置
(1) 防衛要員を予め乗せておく(三名〜五名)防衛要員は社内及対外協力団体より出す。
(2) 検査証及保険証を予め身につけておく。
(ロ) 現場措置
(1) 運転台を離れず大声で下車を要求する。
(2) 第三者に訴える、車内に第三者が居る場合は直接協力を求める。車外周辺に第三者が居る時は警笛を強く鳴らして事情を知らせる。
(3) 実力で降ろそうとするときは強盗行為であることを強く主張して極力抵抗する。抵抗の範囲は別に研究する(正当防衛の範囲)。
(4) 処分、提訴の事実の確認
相手の住所、職業、氏名を確認する。
相手となる人を作るよう努力する。
事態、いきさつの詳細を上長に報告する。
3 車の周囲を取り囲まれた場合
(イ) 予防措置
(1) 警告、掲示用紙を用意しておく。
(2) 防衛要員を予め乗せておく。
(3) 検査証、保険証を予め身につけておく。
(ロ) 現場措置
(1) 運転中ピケその他で停車させられた時は、出来るだけ道路の中央部で交通の妨害となるような形で停車する。
(2) ドアーを固く閉して入らせない。
(3) 車内から用意した警告文を貼り出すと共に大声で警告する、威力業務妨害罪であることを強く主張して解散を求める。
(4) 警笛を強く鳴らして第三者の注意をひき事態を訴える。
(5) 車輛に損害を受けることがあるから、その妨害者の行為と氏名をよく確認する。
(6) ピケ参加の氏名、人相を良く確認する、特に指導的立場にあるもの。
(7) 実力で侵入して来た時は前二項の現場措置による。
4 説得と云うことで乗務妨害行為が行われる場合
(イ) 予防措置
(1) 毎日家族に出退、帰宅時刻を確認させておく。
(2) 単身出勤を避ける、複数行動をとる。
(3) 退避場所を設定しておく。
(ロ) 現場措置
(1) 大声で就労権を主張すると共に第三者の注意を喚起する。
(2) 出来るだけの抵抗と逃避を図る。
(3) 相手の氏名、人相及行動をよく確認しておく。
(4) 相手の隙を見て連絡することに務める。
(5) 拉致された場合は会社、家族より警察に訴える。
(6) 事態察知出来た時は防衛隊が直ちに警戒態勢に入り、要すれば足留、監禁をとくよう務める。
二、車輛の奪取
1 運行の途中で車を奪取する場合
(1) 警察に事前に充分連絡をとり現場立会を求めておく。
(2) ロックアウト指名書を渡して下車を要求する。
(3) 拒否する場合は充分説得して実力で下車させるか乗せたまま運転して拠点に運ぶ。
(4) 乗客のある時は事情を説明して協力を求める。
途中で営業を中止する時は乗客の輸送方法を研究しておくこと。
(5) 営業途中で乗り込む時はなるべくターミナルを避ける。
2 車を止めて周囲を取り囲み奪取する場合
(1) 警察に事前に連絡をとる。
(2) 停車させる時は出来るだけ道路の左側に寄せるように心掛ける(他の交通の妨害にならないように)。
(3) 車の前後にスクラムを組むか器材を用いて運転不能にする。
(4) 車外よリロックアウト指名書を提示して下車を勧告する。
(5) 応じない場合は実力で下車させる旨を伝え窓ガラスを破つてでも車内に入り奪取する、乗客のある場合は被害のかからないよう充分注意する。
3 敵の拠点を襲つて車を奪取する場合
(1) 警察に事前に充分連絡をとつておく。
(2) 外部協力団体の応援を求める。
(3) 対峙の状態になつた場合。
(イ) 不法占拠を解くよう警告する。
(ロ) 実力でピケを排除する意志を伝える。
(ハ) 実力行使………程度と要領研究する。
三、拠点防衛
1 防衛施設をする時期と要領
(1) 時期は作戦上最もタイミングを要するので本部の指令による。
2 要領
(1) 予定地域を防衛隊、協力団体の人垣で確保する。
(2) 設営隊到着後は作業妨害排除に努める。
(3) 設営隊の編成は外部に依頼するを原則とするも時間的に、人的に必要とするときは防衛隊も一部投入する。
3 対峙の時設備の破壊行為が行なわれる場合
(1) 警察に連絡をとる。
(2) 写真班を常駐して破壊行為の現場を撮る。
(3) 録音機を備え付ける。
(4) 不法侵入を警告する。
(5) 外部協力団体に連絡する。
(6) 出来るだけの方法で防禦に努める、抵抗の範囲を研究する。
となつている。争議心得(省略文、一、二)と云うのは全文のうち「前提」、一、車輛及び要員の確保の項で一項、二項の(イ)の(1)、三項(イ)の(2)、二、車輛の奪取全部、三、拠点防衛全部が省略されたものと(但し文書には二、省略というように記載されている。)省略部分は同じであるが、「車輛確保後の処置」と題し、
1 スピードメーターの走行粁を記録しておく
2 チェンジレバーを脱して宿舎に持参する
3 台数によつて適当に車輪を脱しておく
4 必要によつてはリヤーシャフト、簡単にはづせる車はハンドルのワッパを外す。
5 其の他効果のある気付きの部品をはづす。
ことを記載した二種類のものが存在し、前記山労員に配布されたというのは、この付加部分のある争議心得(省略文二)である。
そこで、この三種の争議心得の関係であるが、文章の記載自体から争議心得(全文)が一番はじめに作成されたことは明らかであるところ、後記証拠の標目記載の右証拠に基づき考えると争議心得(全文)は、その内容において、梅田六七回証言の如く現場の営業課長らの会議の段階で論議されることはともかくとして、少くとも文書として作成し、論議、決定さるべき筋合のものではなく、それは交渉委で議題として論議された結果を、自動車運行の責任者である安成課長が自動車対策の専門部会ともいうべき自動車部課長会議の助言を得て、種々の角度から研究、討議し、結論の出し難い点については、将来の研究課題として掲げ、安成、梅田において一応原案を作成し、これを再び交渉委にかけ、そこで更に検討のうえ会社の争議対策基本方針として正式に確認し決定されたもので、それが梅田の手により門外不出の機密文書としてプリントされたもの、これがすなわち争議心得(全文)と称する文書であると解するのが相当でありその作成の時期は「前提」の記載内容からみると、弁護人所論のように労協がなお効力を持つていた時に作られたのではないかとの疑いもないわけではないけれども、争議通告関係書綴(昭和四〇年押第六二号の二二)によると、労協切れ以降も指名スト等争議行為の場合、支部組合側は必ず事前通告をなしていることに鑑みると、「事前通告無視」の文言があるからとして、これから直ちに当時労協が有効に存在していたと断ずるわけにはいかないし、「協約切れの段階では云々」の文言も一概に将来の事実の表示形式とも受取れない。しかしながら、「前提」の内容と文中随所に相当の検討期間を要するであろうと思われる具体策等について「研究、準備する。」との字句がみられること及び既に述べた交渉委、自動車部課長会議の早い時期における発足、会社側の争議対策に対する苛烈とも見える取組みの姿勢等からすれば梅田六七回証言、安成六三回証言の如く五月二〇日すぎ頃の労使間が極めて緊迫した頃作成されたとは考えられず、五月二〇日より相当以前に作成されたと見るのが相当である。
なお、検察官は争議心得(全文)の大部分は削除され、争議心得(省略文一、二)が作成されているのであるから、削除前のものにつき論議する必要はない、と主張するが、当裁判所の判断は右のとおりであり、削除された旨の主張は採用の限りではない。
二、支部組合の対策
統一委設置の目的、経過については既に述べたとおりで、これが支部組合側の最高の争議対策であつたことは改めて言うまでもない。私鉄中国は第五回拡大執行委員会で争議対策として、本部オルグとして本部執行委員全員をあて、五月二〇日以降解決まで派遣する。動員体制については二〇〇名を目途とし、各支部は同月二五日にそれぞれ一名の割合で動員に応ずる。期間は二五日以降解決までとする。
私鉄総連の指示に従い、当面の斗争資金として総連、本部、支部組合の三者で五〇〇万円を山口労働金庫から借入することを決め、また地元の山口県労評はこれより早く、支部組合の今次斗争の結果が、県下労働界に及ぼす影響を重視し、三六年四月下旬、私鉄総連、総評と共に支部組合の斗いを全面的に支援して共斗することを決定し、同月二二日第一回の共斗打合せ会を開き、続いて同月二五日第二回目の打合せ会を下関市で行ない、県労評加盟各単組、各地区労、県交運翼下各単組を構成団体とする私鉄山電山口県共斗会議を翌二六日から発足させることを決議し、山電斗争は会社対山口県労働者の対決という色彩を強め、当面の支部組合では、五月に入つて各職場毎に三六年春斗についての職場大会を開き、組合員相互の結束を固めると共に、五月中旬には家族会の臨時総会を開き、家庭ぐるみの斗争態勢を確立した。
こうした中で、統一委は弾圧対策委員会の責任者を県労評の立野、副責任者を県交運の山下と定め、弁護士数名を顧問としておき、法廷、警察対策、証拠収集のための写真撮影の任務を担当させ、渉外、動員、配車、具体的戦術行使を担当する共斗委員会は、総評の中田を隊長に、同じく八代、私鉄総連の赤出両名を副隊長として配置し、総評、私鉄総連挙げて共斗態勢を固め、情報宣伝委員会は私鉄総連の岩名を責任者、支部組合の田中を副責任者とし、教育宣伝、情報連絡の任務を与え、財政、給与を握る財政委員会の責任者には、統一委議長三橋自ら就任し、財政面からする斗争の支障なきを期するなど会社側に劣らず鉄壁の斗争態勢を整え、共斗委では八代副隊長が中田隊長を保佐して、九州方面から日炭高松を中心に、総評の立場から毎日約二、〇〇〇名に上る支援派遣を目標に総評傘下の各単組をまわつて、支援を要請し、赤出副隊長は、山労が就労の意思を表明しているところから車輛確保戦術を採用して斗う旨の戦術委の方針決定に従い、当面の具体的方法として、スト突入が予定通り二八日午前零時の場合、支部組合員の運転する車輛は前日の運行終了をまつて、予め定めた車庫に格納し、山労員運転の場合は説得して運行終了後予定の車庫に格納させる。若し予定に反し、運行時間中スト突入の場合、支部組合員運転の車輛は直ちに予定の車庫へ格納但し乗客があれば終点まで運行して車庫へ格納、山労員運行の車輛は乗客があれば、それに乗組み終点に着くのをまつて説得して予定の車庫に格納させる。運行放棄して分散する車輛に対しては、その時点で車庫格納を説得する。ことを決め、山労員に対し、車輛確保方の協力を説得するための説得班を設けるなど斗争準備を着実に進めていつた。
第七、ストライキ突入から争議終結までの概略
五月二七日前述の如く会社側に対し争議通告を発した統一委は、同日支部組合員に対し、楠本委員長名で、一、全組合員は五月二八日午前零時を期して全面無期限ストライキに突入せよ。二、但し会社が二七日中において車輛の分散疎開、車庫への格納等の措置をとり事実上運行停止をはかつた場合は、その時点より直ちにストライキに突入すること。この取扱に関する権限は各職場責任者の自主的判断によるものとする。旨の斗争指令第一号を発し、共斗委の赤出副隊長は同日午前これに備え、会社バス路線の営業拠点俵山、正明市、特牛、小串方面に、私鉄中国が動員した支援オルグで構成する車輛確保の説得班を派遣したところ、正午に近い頃、俵山近郊で終点における説得確保のため、山労員運転のバスに乗込もうとしたとき、運転者がこれを避けるため停車せず説得班員の一人の靴先を僅かにひいたまま走り去つた事件が発生し、これが支部組合側の憤激を誘い、これをきつかけに俵山方面で車輛確保が始まり、このことは直ちに山電本社へ報告され、前記のように梶山課長から統一委に対する交渉打切りの連絡となつて現われた。
このようにして、三六年春斗は二七日正午頃からまず俵山地方からストライキに突入し、午後四時頃の下関地区のストライキ突入まで、地方地区から逐次ストライキに突入して本社地区に及ぶという変則的な事態で斗争の幕は切つて落され、支部組合と会社は三要求、労働協約改訂、賃金値上、四人の解雇取消の諸問題の解決をかけて、まず本件小月、下関ジーゼル両事件をはじめとする多くの対立、抗争を巻き起こし、しのぎを削る車輛確保斗争に入り、会社側は既に分散していたものも加え一三八輛を、支部組合側は一二八輛をそれぞれ確保し、支部組合側は確保した車輛を本社地区後田車庫、自動車修理工場、修養館前広場、右工場から後田車庫に至る会社敷地上など組合の支配下にある東駅営業課構内に格納し、連日千数百名、多いときは二千名を越す支援労組員を動員してピケラインを張る一方、共斗委の下に統制部を設け、確保した車輛の点検、監視係二人を置き、専従として車輛の管理に当らせると共に、二八日山電労発第七八二号文書をもつて、楠本委員長から林会社社長宛、現在当組合のピケット内にあるバス、電車車輛保安のため、会社側において整備、点検を行う必要あるときはその目的に必要な限度のピケット通過、整備点検実施について当組合はこれを拒否する意思はなく何時でも協議に応ずる用意がある旨の車輛管理についての通告をなした。なお電車については殆んど会社側が東駅と鳥居前の車庫に納めた。
こうして、二七日は労使双方の激しい車輛確保戦で終り、二八日は静かな対決で暮れ、翌二九日を迎え、この日も平静のうちにすごすかと思われたところ、同日夕刻前記のように移動隊と支援組合側の間で本件第三ゲート事件が起こり、支部組合側斗争本部はにわかに険悪な空気に包まれ、同日夜第一新地事件が発生し、翌三〇日会社側は支部組合を相手取り、山口地方裁判所下関支部に、支部組合の自動車、電車に対する占拠、運転の禁止、電車並びに自動車の発着運行及びその附随業務の妨害の禁止を求める仮処分命令を申請し、労使の対立は昂まるばかりで、団交が開かれる見通しは全くなかつた。
こうした状況の中で、地労委はいち早く二九日には職権斡旋を試みるべく乗り出し、労使双方に対し斡旋開始に当り、スクールバスの運行と大衆行動の自重を要望したうえ、事情聴取にとりかかり六月二日後記斡旋案が翌三日正午頃までの回答期限を付し、労使双方に示された。
この間会社側は、下関、小野田両地区を除く比較的ピケ隊の少ない俵山、西市間・西市、滝部間など一八系統ぐらいを約二〇台のバスを使つて運行(全系統は二三三系統ある。)し、スクールバスについては労使間で数度にわたる文書の交換により運行を計つたが、無条件運行を主張する会社側と運転経路、乗務員などの条件を付した運行を主張する支部組合との意見調整がつかず結局運行実施に至らなかつたが、会社側は六月に入つて更に多数のバス運行を計画し(但しストダイヤが編成された事実はない。)六月二日川本課長は翌三日からバスを運行することを下関警察署に報告にもむき、一方これを察知した支部組合側は六月一日地労委宛、大衆行動の自重について協力して来たが、斡旋開始以来会社側は組合の了解を得ることなく一方的に運行車輛を増加し、スクールバスの一方的運行を計画しているもののようである。従つてストライキの効果を減少せしめるような行動を容認することは出来ないので対抗行為をとらざるを得ない旨を文書をもつて通知し、六月二日分散車輛の確保行為に出た本件自動車学校事件、続いて移動隊専用バス確保に向けられた第二新地事件が起こつた。一方、同日会社側のバス運行計画を知つた地労委は事情聴取のため来ていた松田常務に対し、このような緊迫した時に車を動かすなど、出来る話も出来なくなり、流血の惨事をひきおこすようになつたら大変ではないか、と厳しい注意を発し、松田常務は急遽下関警察署におもむき、川本課長に運行中止を指示した。
斡旋案
一、労働協約に関する事項
(一) 懲戒処分の協議約款について
1 組合員の懲戒については懲戒委員会の協議を経て行う。懲戒委員会は懲戒事案について信義誠実の原則に則り四ケ月以内に結論を得るよう努力するものとする。
2 懲戒の適正を期するため懲戒基準を設定するものとし、この基準は別途労使協議して定めるものとする。
3 懲戒の協議約款については、最後まで意見がはげしく対立した事情もあるので次期改定時には白紙立場において改めて充分検討すること。
(二) ショップ制について
未組織労働者及び新規採用者には組合選択の自由を認めることを双方確認して山電労組と同様のものを結ぶこと。
(三) 配車及びダイヤ関係について
五月二七日の時点において双方ほぼ合意に達していたと認められるのでその方向で話し合い円満に取決めること。
二、賃上げについて
(一) 賃上げは一人平均税込二、七〇〇円(自動昇給を含む)としその配分については、組合の意向を尊重し協議して決めること。
(二) 会社は組合に対し争議解決金として一五〇万円を支給すること。
(三) 組合は会社から提案の電車及びバスの運行時分適正化措置の必要性を認め、この実施に協力すること。
三、懸案問題について
(一) 処分要求問題
この処分の当否は別として会社が組合の不満を買つたことは遺憾である。組合は処分要求を撤回すること。
(二) 四人の解雇問題については会社は組合と話し合つてなるべく早く円満に処理すること。
この場合好ましくはないが止むを得ないと認められれば公正な立場の第三者を入れて話し合うこと。なおこの場合に限り前号の処分と均衡を失しないよう特に留意すること。
(三) 組合役員の配転問題
五月二七日の時点において、ほぼ合意に達していたと認められるので会社は組合と話し合つて円満に処理すること。
会社側は六月三日地労委に対し、右斡旋案を受諾する旨の回答をなしたが、支部組合側は斡旋案受諾を主張する三橋ら私鉄総連側と、このような斡旋案を受諾して争議を終らせると、組合は無きものに等しい結果となり組合は崩壊してしまう。会社が参るまで徹底的に斗争すべきであると主張する私鉄中国と支部組合の意見が鋭く対立し、このため三橋らは地労委に対し、回答期限を二日間延ばしてもらうと共に、斡旋案に盛られた諸条件は私鉄総連傘下の約一九〇組合(当時)の中で底辺すれすれではあるが、決してそれ以下ではない。第二組合のある企業としてはそれも止むを得ない処であり、むしろ斗争継続よりも組合統一に向つての努力こそすべきである。と数時間にわたつて説得し、二日間にわたつて徹底的に討論させ、ようやく六月四日になり説得が功を奏し、斡旋案受諾となつた。ところが、右斡旋案の中にストライキ中の民事、刑事責任について触れていないことから、三橋らはその点についてその頃会社に対し、争議責任問題についての団交を申し入れると共にこの点についての明確な協議がない以上争議態勢を解かないことを通告し、また会社側も六月四日山電労務発一〇五号文書をもつて、斡旋案を受諾した以上直ちに争議を中止し、しかるのち団交すべきである旨を通知すると共に、翌五日地労委に対し、支部組合は斡旋案に示された未解決の協議事項についても、この際同時解決をみなければ尚ストライキは継続する旨を強調している。よつてストライキ中止の勧告を求める旨の勧告要請をなした。
右要請を受けた地労委は、同日直ちに再度事情聴取に入り、翌六日、その斡旋により
一、今次争議の責任について
(一) 処分については刑事事件で有罪の確定判決を受けたものに対してのみ行うものとし、懲戒基準に拠つて処置する。
(二) 既に告訴しているものは、そのままとし、今後告訴しない。
(三) 民事関係の責任は問わない。
二、今後一年間このたびのような争議を行なわないよう私鉄総連が責任をもつ。を内容とする「覚書」が私鉄総連、私鉄中国、支部組合、会社、地労委連署で出来上り、ここに三六年春斗の幕は下ろされ、同日直ちに運行再開の運びとなつた。
第二章 各論
第一、下関ジーゼル事件
一、事件の概要
下関ジーゼルは下関市大坪町六一二番地に所在し、自動車ジーゼルエンジンの整備並びに車体の修理一般を営業目的とする株式会社組織の整備工場(代表取締役藤本定夫)であるが、工場は四七〇坪(本件当時)の敷地を有し、市道に面する正面入口は6.2メートル巾を有し、その両側に高さ1.8メートルのコンクリート製門柱が建てられ、門扉の設備はないが、敷地周囲は西側門柱から西に一四メートルの板塀と、それに続き西側と南側は有刺鉄線を張つた木柵で囲まれ、東側門柱より東側にかけてはコンクリート製塀とそれに連なる東側工場建物後壁によつて囲繞され敷地内には西側北端に東向きの平家建事務所一棟(一二六平方メートル)と、その南側に工場長の平家建居宅一棟(54.85平方メートル)それぞれ存在し、敷地東側には西向きの平家建工場一棟(八二平方メートル)、同南側には北向きの平家建工場一棟(二八六平方メートル)がそれぞれ建てられ、敷地中央は車の出入りの便のため広場となつている。当時、山電とは修理の部類毎に単価を取決め、主として定期的な整備、すなわち四、〇〇〇キロ、或は二万四、〇〇〇キロ走行車の修理、整備を行なう所謂山電協力工場の一つであつたが、本件争議に入る前の五月一〇日頃から山電バスが次々に入庫し、二七日までに一〇台のバスが入庫していて東側工場内に一台、南側工場内に四台、残り五台はそれぞれ工場横空地に置かれ、本件当時二・三台の山電バスについて従業員が整備に従事していた。
一方、五月二七日スト突入と同時に下関ジーゼルに山電バスが置かれていることを察知した統一委では、同日午後一時頃共斗委の中田が統一委の直轄指導下にあつた青行隊古田隊長(なお青行隊については第一新地事件参照)に対し「会社側が下関ジーゼルに一〇台ぐらいの車輛を隠匿している、青行隊は運転手と協力し、ストライキ防衛のため、その車輛を平和的に確保せよ。」と指令し、古田隊長は直ちに被告藤人田哲雄を含む青行隊員約六〇名を集め、右指令を伝えると共に、運転手数名を同行して、右指令実行のため下関ジーゼルに向つた。その頃被告人田部正博は給食部にあつて支援労組に対する食事の準備をしていたところ、共斗委統制部から運転手が不足しているから青行隊と同行して車輛確保のため下関ジーゼルに行くよう指示を受け、青行隊より約一〇〇メートル位おくれてその後を追つた。
青行隊を指揮して同一時三〇分頃下関ジーゼルに着いた古田隊長は会社側による車輛確保の阻止に備え、青行隊員のうち四十数名を正門外側に待機させる一方、自ら被告人藤田を含む十数名の青行隊員と被告人田部ら運転手をひきいて、格別下関ジーゼル従業員の阻止に遭うこともなく平穏に構内に入り、直ちに山電バスの点検を指示し、運転可能の車はそのまま運転させ、整備中ではあるが殆んど終了間際の関係上取外してあるにすぎない運転可能な車については、直ちに部品を取付けて運行させ、整備未了で運転不可能な車輛はそのままにして、その間約三〇分間下関ジーゼル構内に留まり、結局八台の車輛を同所から持出し東駅構内に回送したがこの間下関ジーゼル二、三の従業員の整備中であるから持つて行つては困るといつた程度の抗議はあつたけれども、別に阻止行為がなされ紛争を起こすことはなかつた。被告人藤田はこの時下関ジーゼル構内広場中央付近で笛を吹いて車輛発進の誘導に従事し、被告人田部は初め頃は顔見知りの下関ジーゼル従業員と雑談を交わしていたが、最後に持出した車輛の運転に従事した。
二、公訴事実の要旨
被告人田部、同藤田の両名はいずれも支部組合の組合員であり、支部組合の労働争議に参加していたものであるが、外三〇名ぐらいと共謀の上、株式会社下関ジーゼル整備工場が山陽電気軌道株式会社より整備方を依頼され、預り保管中のバスを奪取しようと企て、故なく昭和三六年五月二七日午後一時四〇分頃、右株式会社下関ジーゼル整備工場代表取締役藤本定夫看守にかかる下関市西大坪町六一二番地所在の同工場内に侵入したものである。
三、当裁判所の判断
被告人両名が古田隊長に率いられた青行隊員約六〇名および運転手数名の者と意を同じくして、下関ジーゼルが山電から預り保管中のバスの確保を目指し、公訴事実記載の日時頃、藤本定夫の看守にかかる下関ジーゼル構内に立ち入つたことは「一」記載の事実から明らかであり、下関ジーゼル構内それ自体が敷地建物一体となり人の看守する建造物に当ることは云うまでもない。検察官は右保管は整備を依頼されて預つたものであり、右立ち入りは看守者の意思に反したものであつて、且つ違法であると主張するので検討する。
当時、下関ジーゼルが山電から預つたバスは一〇台であつたことは既に(一)で述べたところである。
そこでまず右一〇台のバスは真実修理や整備のために入庫したものかどうかについて考えてみるに、
木村昭宣一八回証言によると当時山電ではバスの修理並びに整備は自社工場課で行なう例であつたが、全庫のそれを処理する能力を有していなかつたため四、〇〇〇キロ、二万四、〇〇〇キロ整備に関しては整備すべき時期が予測できるところから一年を二期に分け、一期毎に期首において工場課長が計画を立てそれに基づき下関ジーゼル等に外注に出していたこと、外注に出すに当つては工場課検査係が検査の上整備や修理個所を記載した車輛修理指示書を作成し、外注先従業員を呼び右指示書と車輛を渡し、整備が完了した車輛は外注先従業員が右指示書と一緒に工場課に運び、検査係は指示書によつてこれを検査して受領する仕組となつていたことがそれぞれ認められる。昭和三六年六月二三日付司法警察員松原正作成の領置調書及び同三八年七月一六日付検察官遠藤安夫作成の領置調書によると、木村昭宣は本件事件に関係するものとして車輛の修理指示書七通を提出し、これが昭和三八年押第四三号の一の一ないし七であるところ、右証言は更に松原正に対して右指示書を提出した当時、まだ修理が終らず、従つて同人の手許に指示書が返還されていないものが一通あり提出できなかつた旨を供述している。そこでまず同号証の一の七の指示書を見ると一二〇八号車の下関ジーゼルへの入庫日付が同三六年六月一二日となつていて、この点につき右証言は、臨時の故障で内容の分かつた修理であつたから彦島営業課から直接下関ジーゼルへ持つて行き、後で指示書が作られたもので同年五月二四・五日頃入庫していると供述している。しかし修理を要する車輛はすべて会社工場課にまず持込まれるのが立て前であつた旨の前記証言及び同号証の一の六によれば五月二六日入庫した一二三六号車は差動装置の修理だけを内容とする極めて内容の明瞭な修理であるにかかわらず指示書が作成されている事実に鑑みるとき、右供述はたやすく措信し難く、なお、一二〇八号車の修理指示書によると同車輛の修理はさして困難な修理とも思われず、入庫後日ならずして修理完了納車されたものと推察されるに拘らず、ストライキ期間中検査係において執務し得なかつたとしても、スト終了後一週間も経過して指示書が初めて作られたということも納得し難いことであり、この一二〇八号車が本件当時、果して修理のため入庫していたか否かは不明というほかはない。更に修理が未了で指示書が手許になく提出し得なかつたとの供述について考えるに、成る程司法警察員に対して提出した昭和三六年六月二三日当時提出し得なかつたであろうことは多分の蓋然性を持つけれども、右検察官領置調書によると、司法警察員に対して提出された指示書は一旦木村昭宣に返還され、同三八年七月一六日再度提出を求められて検察官に提出されたものである。しかりとすればこの当時、既に右提出し得なかつた指示書は当然木村の手許にあるべき筈であるのに何故に提出しなかつたのであろうかという疑問があり、この点について納得できる証拠もなく右供述も、にわかに信用し難いものがある。
してみると結局、本件当時修理のため下関ジーゼルに入庫していたのは疑問のない車輛修理指示書のある六台であり、分散先に下関ジーゼルがあつたことからすると他の四台は専ら分散のため下関ジーゼルに預けられたと見る外はない。この点につき藤本一八回証言は指示書のないのは修理が完全でなく手直しに来ていた車輛と思うと供述し、木村一八回証言によると手直しの場合改めて指示書が作られるものではないことが認められるが、右藤本証言の如く修理のため一度は入庫していたものであれば、当初修理に出す時点においては指示書が当然作成されているべきであるのに本件に関係する指示書が右のように七通(一通については前記のとおり疑問がある。)しか存在していない事実は右藤本証言が容易に措信し難いことを示しており、同証言の存在はなんら右判断を左右するものではない。
更に右藤本証言は、当時下関ジーゼルに入庫していた車輛はすべて会社からの整備依頼により、そのために預り保管していたもので、分散の目的で預り保管していたものではないと供述している。しかしながら安成一二回証言によると会社の取引関係には争議に関係して持つて行つた時は預つてくれと事前に依頼してその会社の責任で預つてもらうようにした。このような分散先の一つに下関ジーゼルがある旨の供述があること(一部総論既述)、更に同号証の一の一によると二三二号車は五月一〇日に入庫した四、〇〇〇キロ整備車であり、同号証の一の三によると一二二一号車は五月一八日に入庫した二万四、〇〇〇キロ整備車であるところ、藤本証言によると、通常四、〇〇〇キロ整備は即日、二万四、〇〇〇キロ整備は三ないし四日で終了し、納車するきまりであつたことが認められ、これからすると右二台のバスは遅くとも五月二三日頃までには整備が終了し、会社に納入されておるべきバスであつた筈であるのに、本件当時依然下関ジーゼルに置かれていたこと、また右安成証言及び下関ジーゼル修理工西川好彦一九回証言と前記のように四台の車輛の入庫は専ら分散の目的であつたと解するより外ないこと、加えて下関ジーゼルが山電協力工場であつた関係を総合して考えると、下関ジーゼル代表取締役藤本定夫は、山電から総論記載の分散を目的とした車輛の預り保管方を依頼され、このことを了承のうえ自社の責任における保管方を承諾し、山電においてはその頃整備期に来ていた車輛を主体として下関ジーゼルに合わせ一〇台のバスを入庫させ、その間整備を要する車輛(二万四、〇〇〇キロ整備四台、四、〇〇〇キロ整備一台、修理一台)については整備をなさしめようという一石二鳥をねらつた分散を行ない整備完了後も分散の目的で預けられていたものと見るのが相当である。
しかして、被告人らの下関ジーゼルへの立ち入りがその看守者たる藤本定夫の意思に反していたことは藤本証言により明らかであり、被告人らが「一」記載のとおり殆んど終了してはいるけれども未だ整備中の車輛をも確保して持ち帰つた事実は明らかに下関ジーゼルの整備業務を妨害したものと云うべきである。
弁護人はバス確保行為は労働組合として正当な活動であつて何ら違法でなく、被告人両名は正当な組合活動上の権利行使として支部組合の指示にもとづきバス確保行為に従事する考えで立ち入つたもので犯意を欠くものであり、また下関ジーゼルは支部組合の争議破壊の意図をもつて、山電会社の争議対抗行為に積極的に加担し、組合の団結権侵害に山電と共同加功したものと云うべきであるから、自らの意思に反して組合がそのバス確保戦術によるバス確保のため、構内に立入ることを甘受すべき立場にあつたから、被告人らの立入り行為は有責違法であるとは即断できないと主張するところ、バス確保行為が正当な争議行為として評価され得る場合があるとしてもすべてのバス確保行為が正当な組合活動として認められるものではなく、ことに第三者の業務を直接妨害してまでなされる車輛確保は後記のように違法であり、組合指示に基づきなした行為であるが故に犯意を欠くとも一概に断ずるわけにはいかない。すなわち下関ジーゼルが山電バスを預かろうとした当初の意図が争議に際し会社側が行なう分散に協力することにあつたとしても、そのうち六台は現に整備を必要とするものであつたことも前認定のとおりである。してみると右六台の車輛に関する限り、その預るに至つた当初の意図がどうあれ、現になされた車輛の保管は自己の業務のために預つたものと云わなければならない。云うまでもなく争議行為は使用者の業務阻止に向けられた労働者の団結権の行使であり、それに止まるべきものであつて、その行使の結果、直接間接に第三者の業務或は権利が妨害されるに至ることのあるは止む得ないとしても、直接第三者に向けられたその業務を防害するが如き行為はもはや争議行為とは云えず、仮に争議行為の名の下に行使されたとしても決して許容さるべき筋合のものではない。
かかる意味において被告人らの右六台のバス確保行為は下関ジーゼルの整備業務を多数の勢威を示して妨害した違法な所為と云うべきである。
しかして被告人らの本件車輛確保の目的が分散された車輛のみにあつたのか、それとも運行可能な車輛全部にあつたのか明らかでないが、被告人らは現実に修理整備のために預けたものか、分散のために預けたものか調査もせず、運行可能な車輛全部を運び出していること、特に修理中の車輛二台については修理の事実を現認しながら、従業員の制止の言葉にも耳を藉さず、部品を取りつけさせて運び去つていることからすれば、被告人らは分散車輛のみならず運行可能な全車輛を確保する目的であつたものと認めるのが相当である。したがつて前記の如く六台の車輛についての確保が違法である以上、分散車輛四台の確保が仮りに適法であり且つ被告人らが車輛確保は正当な争議行為であると信じていたとしても、本件立ち入りは正当の理由があつたものということはできない。
しかしながら、一方整備に関係のない四台のバスを会社側の分散という意図を知つて預つた下関ジーゼルの所為は自己の業務に関してではなく、会社側の争議対抗行為(車輛分散が争議対抗行為の性格を持つこと総論既述。)に直接加担し、援助したものと云うべきであつて、争議権の行使が前叙の如く使用者に向けられたものだけが許容され、第三者に向つてなされた争議行為が違法であるとされる以上、使用者側に第三者が加担し、争議対抗行為をその加担の形態が積極的にせよ、消極的にせよ分担実行した場合、争議組合としては、手を拱いて見守るより外になく、かくては、第三者によつて争議権の行使が直接制限された結果となり、争議に敗れるのは必至であつて、憲法が労働者に団体行動権等労働基本権を保障し、労使対等の原理によつて労働者の生存権の保障を実質的に効果あらしめようとした趣旨に反し、かかる争議に無関係な第三者の使用者側に対する争議加担行為は、労働基本権を侵害する違法な行為というべきであつて、第三者のかかる行為については争議組合は、当該所為に対し、自己の権利を守るために相当の防衛行為に出ることが容認されて然るべきものと思料され、これによつて第三者が不利益を蒙むり、或は社会通念上相当と認められる限度において、その権利が侵害されるに至るも止むを得ないと解し得る余地が存し、かゝる見地からすれば、下関ジーゼルとしては少くとも真実修理のため入庫したものであるか否かについての点検のための立ち入りは認容すべきものと思料されること、また被告人らは統一委から会社側が下関ジーゼルにバスを隠匿していると云われて、その確保に向つたこと、山電バスの運転手は四、〇〇〇キロ整備の場合バスに同行して下関ジーゼルに行くのが慣例であつたこと、支部組合員はバス確保行為が許された争議手段であると信じていたこと(被告人ら八二回各供述)、下関ジーゼルがジーゼルエンジンの整備、修理工場であつて、その構内にあるバスであれば当然、整備或は修理のため入庫しているものと一般的には推測すべきであると云い得るとしても、本件に関する限り、会社側が総論既述のように争議前から車輛分散を行なつていたこと、現に下関ジーゼルが分散車輛を少くとも三台は預つていたこと、下関ジーゼルへの普段の整備、修理依頼による入庫は平均三、四台のものであつたことからすれば、必ずしも本件時の入庫全車輛について右のように推認すべきであつたとも云えないこと、被告人らは結果的には八台のバスを確保しているけれども整備を要するものとして入庫していた六台のバスのうち現に整備をなお必要とする車輛二台はそのまま残され、西川一九回証言、幡手二〇回証言によると残り四台のうち二台は整備が終了し、他の二台もほぼ終了に近いものであつたことが認められるのであつて、この四台については車輛返還という業務がなお残されているとはいえことさら取上げるべき程の業務妨害とも云えず、それ故にこそ検察官も業務妨害の点については敢えて訴追しなかつたものとも推量されること
及び本件全体の態様を総合して考えると、被告人らの本件立ち入り行為は形式的には建造物侵入罪の構成要件に該当するけれども、未だ刑罰を以つて臨まなければならない程の違法性はないものといわなければならない。
よつて被告人らの本件各所為は罪とならないものとして、被告人らはいずれも無罪。
<省略>
第三、第三ゲート事件
一、事件の概要
バス確保をめぐつて労使双方で激しく、くりひろげられた争奪戦も一段落し緊迫した空気も、いくらか和らいだ五月二九日午後五時頃、東駅山電本社構内変電所横、いわゆる第三ゲートと呼ばれる下関市西大坪町東向山から山電構内を横断して後田町方面に通ずる通路に設けられた通用門では、若松地区労、小倉地区労などから派遣された支援労組員一二、三名が配置され、うち四、五名の者は門を出て、山電本社正門前に腰を下ろしてたむろし、皆のんびりとピケット配置についていた。
このような状況の時、移動隊約二〇〇名を乗せたバス六台が同市新町一丁目を経由して本社正門前を通過し、正門から筋川寄りに約四、五〇メートル進行した主師寅商店手前附近からマルシン食堂の間に相次いで停止し、竹或は棍棒等を所持した者を混えた移動隊員は、バスが停まるか停まらないうちに一斉に下車し、一瞬支部組合側支援オルグ団の到着かと見違えた第三ゲート配備の支部組合側支援労組員めがけて突如襲いかかつた。不意を突かれた右支援労組員らは、あわてて第三ゲート内に逃げ込んだが移動隊員は、第三ゲート内に逃がれる支援労組員を追つて右ゲートに迫り、内側から門扉が閉められるや、竹、棍棒をもつて門扉の金網越しに門扉を押える支援労組員に対し殴る突くの攻撃を加え、或る者は投石するなどの暴挙にいでて支部組合側に多数の負傷者を生ぜしめ、その頃急を聞いてかけつけた支部組合側の者と互に罵声をあびせ合い、支部組合側からも石が投げられ騒然たる有様となつた。また移動隊の一部の者は逃げおくれた支援労組員一、二名の者を取り囲みこれに対し殴る蹴るの暴行を加えて、そのうち坂本良澄に対し入院約三週間を要する全身打撲等の傷害を負わせた。やがて、第三ゲートの近くで移動隊責任者波多野課長がマイクで支援組合側に向き不法占拠を止めるよう告げ、この間一〇分ぐらいにして引揚げの合図がなされ移動隊全員はバスに分乗し筋川方面に向け発車した。ところでこの日移動隊のバス後方には会社側村田運転の指導班の乗つた乗用車が続き、ついで写真班山本が運転し同じく写真班、服部、田部が乗る乗用車、その後に小久保運転の指導班右田、柴田、岡田三名の乗る乗用車があつて行動を共にしていた。これらの乗用車は東駅に着いたとき、まず先頭の村田車が移動隊の最後尾バスから二、三メートルの間隔を置いて停まり、次いで山本車がその左斜め後方に、少し遅れて到着した小久保車は山本車の右斜め後方に停車した。そして写真班の服部、田部、指導係りの右田一郎らが下車し、移動隊が引揚げる頃乗用車に帰り、右田はそれまで乗つていた小久保車から写真班の山本車に乗り換え、運転席に山本、その後部座席に右田、助手席に服部、その後部座席に田部が乗り、移動隊のバスの後に続いてまず先頭の村田車が発車し、次いで最後尾であつた小久保車が道路右側に出て山本車を追越し山電本社正門前に来たとき対向車が接近し、小久保車が道路右側に寄りすぎていたため離合出来ない状態であつたところから一旦バックするため停車した途端エンジンがストップして立往生してしまつた、その頃これを見た第三ゲートの一五、六人の支部組合支援労組員は小久保車めがけて押しかけ小久保車の後から進行していた山本車も小久保車の左横約1.5メートルの間を置いた処でこれら労組員に止められ周囲を取りかこまれてしまつた。
この頃被告人塩田は右田の横一メートルぐらいの処に接近し乗用車の窓ガラス越しに右田の顔写真を撮ろうとしたところ、いきなり窓ガラスが開けられ右田から右手首を引張られ、窓ガラスに右手を突き当て右手親指の爪をはがすに至つた、このため被告人塩田は傷の手当をすべく一旦組合本部に引揚げた。ところがその間、第三ゲートから押し寄せた支部組合側労組員の数は増え、小久保車、山本車はこれら労組員によつて前後左右に激しく揺すぶられ、被告人塩田が治療を終えて再び現場に引返した頃は、小久保車、山本車に群がり集つた右労組員らは興奮し右田ら乗用中の者を外に引ずり出そうとして、ドアに手をかけ、内外互に開けよう、開けられまいとしてドアの引張り合いをしている最中であつた。これを見て被告人塩田も右手に傷を負わされたことを抗議すべく右田の処に行き、右労組員らと一緒になつてドアを開けようとした。こうして数回ドアは半開きとなり、この間に右田はこれらの者によつて腕をつかんで引張られたり右膝関節附近を一〇回近く蹴りつけられる暴行を受け、完全に痛みが取れるまで約一〇日間を要する右膝関節打撲挫創の傷害を受け、また、小久保車に乗車していた岡田指導係は車外に引きずり出され袋だたきに合い入院一週間を要する傷を負わされるに至つたが、そのうち既に通行を始めていたバスのうち最後尾のバスに乗つていた移動隊員が小久保車、山本車の右状況を発見し前車に合図して結局後尾二台のバスが現場から約一〇〇メートル筋川寄りの処に停車し、約六、七〇名の移動隊員が下車して救出に向つた。このため車を取り囲んでいた右労組員らがこれに対抗すべく車の周囲を離れたすきに、約一〇分間支部組合側の攻撃にさらされた右二台の乗用車は発進し支部組合側の囲を脱し、山本車は移動隊バスの停つた附近に停車した。<中略>
三、当裁判所の判断
弁護人は、第一の事実について被告人は、当時写真班員であつてピケット要員ではなかつたから、それとの間に協力ないし意思疎通はなく、被告人の抗議行動はピケ要員とは別個のもので、ただ同一機会になされたものに過ぎないと主張する。弁護人所論のとおり被告人が写真班に属し、右田によつて負わされた傷の手当に組合本部に帰つた時点まで、右田らの乗つた車を取囲んだ支援労組員と別行動をとつていたことは判示のとおりであるところ、傷の手当を終つて再び右現場に帰つた後の被告人の行動は前認定のとおりであり、既に存在する暴力集団の中に途中から入り込んだもので刑法に云うところの共謀概念の典型的な事前共謀或は客観的状況から推断される相互の意思の疎通と云つた場合には必ずしも当らないかも分らないが、本件の状況下における被告人の行動は第三ゲートにおける移動隊員の暴挙に対し右田らに抗議して、その車の周辺に押し寄せた支援労組員らの群集行動の持つ相互暗示の効果に影響され、暗示―共鳴―模倣といつた段階的心理状態に基づくもので、かかる予め定められた計画に統制されていない集合体特有の行為類型の中に位置づけて考え得る行動であるというべく、かかる行為類型下の行為は周囲の持つ偶発的、機会的群集行動によつてその行為の個性が失なわれその中に溶解される特性を持つものであつて、暗示―共鳴―模倣といつた段階をへて個性は集団そのものに質的変化を遂げ、相互に心理的に物理的力において交流し合うものであり、その中における暴力行動は偶発的、機会的性格を持つけれども社会的行為としては個々の個性は喪失し、集団という社会的には一個の主体の一個の行為として評価され、個々の行為はその分肢としての構造を持つもので、刑法上いうところの共謀というに何らの支障はなく、被告人の右田に関する本件所為は弁護人所論の如くピケット要員との間に協力ないし意思疎通がないとは云えず、右田乗用の山本車を取り囲んだ支援労組員との共謀というに妨げはないと云うことができる。
<中略>
更に弁護人は、本件現場における支部組合側の行為は、違法不当な会社側(移動隊)の襲撃行為に対抗するための抗議行動であり、被告人はこの抗議行動の中で襲撃団の指導者であつた右田に抗議を行なつたものでその行為は正当で違法性はないと云う。なるほど、弁護人所論の通り会社側移動隊の第三ゲート襲撃が違法、不当なものであつたことは「一」既述のとおりであるが、支部組合側の本件行動のうち、移動隊が第三ゲートを引揚げるまでの所為はともかく、その後の行動は、右襲撃に原因するものとしてその動機においては、同情すべき点もあり、右田が乗用車に乗つていたことから、これを指導者と思つて抗議行動にでたことは止むを得ないとしても本件右田に加えられた前記暴行の態様は、当時の諸事情を勘案しても抗議の程度を越えたもので違法というべきである。
よつて弁護人の右主張はいずれも採用しない。
第四、第一新地事件
一、事件の概要
五月二九日山電東駅第三ゲートから引揚げた移動隊全員は夜七時頃下関市新地町に移動し、予め会社側が用意していた「明月」「住吉」などの旅館に分宿し、使用バスは新地警察官派出所前付近の車道上に国鉄下関駅に向つて一号車(山二あ一二五三号)トテック一台を間にして五号車(山二あ〇一五三号)三号車(山二あ〇五三二号)二号車(山にあ〇五五〇号)の順に駐車、道路反対側明月旅館前附近に筋川方面に向つて四号車(山二あ〇一〇一号)六号車(山二あ〇一七〇号)の順に駐車させ、各車ともそれぞれ警備班を出し常時警備に当らせると共にチェンジレバーを外したり、ハンドルにチェンをかけ、タイヤの空気を抜くなどの措置を取つて支部組合側の確保に備えていた。
<中略>
ところで、その頃統一委の戦術委員会では移動隊が新地町に移動し、バスを路上に駐車させているとの情報に基づき、このバスの確保をめぐつて白熱の論議が交わされていた。すなわち第三ゲートに対する会社側の襲撃はその頃職権斡旋に乗出して来た地労委に対し会社側に有利な斡旋案を出させるための状態を作り出すことを目的としてなされた意識的な挑発行為であり、そのうえ、新地町における駐車状況は警察官派出所の近くであるし、またヤッケを着け棒を持つて武装した移動隊員に対して、説得によつて車輛を確保するなど不可能であり、単に第三ゲート襲撃のような行為に出るなと抗議するに止めるとしても、とにかく諸般の事情からこれは明らかに会社側が挑発を意図してなしたものとしか受取れない。従つてこの際確保に向うことはみすみす会社側の挑発に乗る結果となるから止めるべきだとの私鉄総連側の慎重論と、或いは確かに会社側の挑発であるかも知れないが、争議の中で第三ゲート襲撃のような無法なことは許されないし、かかる無法を敢てする暴力集団が市内に滞留していることを許すのは争議団に心理的に悪影響を及ぼすし、これを黙つて傍観するという争議は知らない、という特に支援団体を中心とした意見とが対立し、激論が交わされたが結局第三ゲート襲撃に端を発した移動隊に対する憤激と、にわかに昂まつた緊迫感とが大勢を支配して、仮に車輛の確保ができなくても抗議・説得はすべきであるとの意見が勝を制して出動が決議され、全体の総括責任者として私鉄総連の赤出が選ばれた。そこで赤出は青行隊をはじめとする支援労組員約三〇〇名を指揮し、五・六台のバスに分乗させ三〇日午前零時頃東駅を出発、新地町に向つた。ところで支部組合における青行隊とは四月末頃争議の際における不当な暴力会社側の挑発行為に対する争議防衛を目的として、執行委員会において創設が決議され、その頃青年婦人部長古田勝を隊長に二中隊約八〇名の支部組合青年部員で編成され、統一委設置後は統一委の直轄指導下に編入され、主として右赤出の指令に従つて行動し、ストライキ突入後は本件下関ジーゼルをはじめ、下関市大和町日食倉庫、豊浦郡室津、自動車学校等会社側の車輛分散地に出動し車輛の確保に従事し支部組合における行動力の中枢的地位にあつた。被告人住田は青行隊に所属し三〇日午前零時を期しての新地町出動に当つては他の隊員と共にバスに乗つて出動したが、その途中、古田隊長から「今日の行動の目的は会社側が室津・川棚或いは大和町においても移動隊という名称で非常に挑発的な行動に出ているがこれら行動をするために乗つておるバスが新地に置いてある。これをストライキを防衛するために車庫に返すという目的で来た。従つて青行隊員は紛争の起らないよう技工を援助してバスを防衛して東駅の車庫に持つて帰ろう」といつた趣旨の指示を受けた。
こうして赤出の率いる一隊は東駅を出発して下関市武久方面から国鉄下関駅に向つて進行し、同日午前零時二〇分頃新地町に到着し駐車している会社側バスの横を通過して停車し、赤出は全員下車を指示し下車した者は次々と移動隊のバスを取囲み、バス警備のため乗車していた移動隊員と互いに罵声を浴びせ合い、そうした中で赤出はマイクで平和裡に車を渡すよう移動隊員に呼びかけを行なつた。
この時青行隊は古田の指揮で三、四列の隊型を組んで五号車に面した歩道上に並び、その後には日炭高松の青年行動隊約二・三〇名がいた。また他の出動した支部組合側の者はほかのバスに向つた。一方五号車には移動隊第五小隊の下野隊長のほか、四ないし六班の隊員が乗車し、運転席には青木・野村、道路を隔てた反対側座席付近に大西・福田・岡崎、昇降口周辺に下野・山田・山本・峠村、非常口の所に中野・高木、後方に藤川・藤永・古谷らが位置し、室内灯を消し、窓ガラスを閉め、カーテンを下ろし、昇降口には座席シートを積み重ねてドアが開けられないように防衛していたが、犯罪事実記載のようにして、その抵抗は排除され支部組合側に確保されるに至つた。この間一〇一号(四号車)五五〇号(二号車)車は殆んど抵抗なく支部組合側に確保された。
三、当裁判所の判断
(一) 検察官の主張に対する判断
1、本位的訴因について
公訴事実の要旨
被告人は支部組合員であり、同支部の労働争議に参加していたものであるが外三〇〇名位と共謀の上、同会社所有のバスを強取しようと企て昭和三六年五月三〇日午前零時三〇分頃バスに分乗して下関市新地町明月旅館附近に押しかけ同会社が営業に備え看守者を付して同所路上に駐車していたバスに襲いかかり、他一〇〇名位と共にその中の一輛山二あ〇一五三号(看守者下野忠夫外一三名)を取り囲み、スクラムを組んで乗降口ドア等に体当りをなし、それぞれ所携の鉄棒、棍棒等で窓ガラスを叩き壊した上、外二〇名位と共に窓等から車内に乗り込み、看守者の一人大西猪三雄(当二五年)の右肩の辺りを手で突き、所携の棍棒をもつて同人の頭部を一回強打、同下野忠夫(当二五年)の後方より頸部を締め付け、手拳で後頭部及び顔面を各一回殴打し、同高木近雄(当三五年)の腰部を一回蹴り、更に同中野進(当二六年)の腰部を数回蹴る等の暴行を加え、且つ看守者全員を同バスの後部に追い詰め、再三「逃げると半殺しにするぞ」等と申し向けて脅迫し、逃げ遅れた前記下野忠夫外八名をバスの後部に閉じ込めたまま、同所より同市大坪町一四〇番地の会社東駅構内の同組合事務所まで同バスを運転して同人らを連行したうえ、同所において同人らをバスから引き摺り出し、以て同人らの反抗を抑圧して同バスを強取し、その際右暴行により前記大西に対しては全治約一〇日間を要する後頭部打撲傷を、前記高木に対しては全治約二週間を要する腰部打撲傷をそれぞれ負わせたものであり、右は強盗傷人に該当する、というにある。
しかして本件における被告人らの所為は既に二項に判示したとおりであるところ、強盗罪が成立するためには不法領得の意思が必要であり、不法領得の意思とは「権利者を排除し、他人の物を自己の所有物と同様にその経済的用法に従い、これを利用し又は処分する意思」と解されているので、右訴因の成否に関してはまず被告人らの本件所為における不法領得の意思の有無が明らかにされなければならない。ところで支部組合のとつたバス確保戦術は総論既述のとおりであるところ、被告人らのとつた具体的な本件バス確保行為は会社の生産手段たるバスを損壊し、乗員に暴行傷害を加えたものでその手段において労働法上はもちろん刑法秩序の面からもとうてい適法なものとして評価しうるものでないことは明らかである。しかし確保行為に出た目的或いは意図は右バス確保戦術に則つたものであることは判示事実により明らかであり、バス確保の目的、確保後の管理の態様は総論掲記のとおりであつて、確保の目的、管理の状態がそのようなものであり、争議終了後は直ちに返還されるものである以上これに不法領得の意思はないものと云わざるを得ない。尤も検察官主張の如く支部組合が確保したバスのうち一部が支援労組の送迎、ピケ隊員の移動用に用いられ、また支部組合側の待機、休息、宿泊場所として使用されていたことは証拠により明らかであるが、これらはすべて、その後の事情(後記車輛確保についての項記載)の変化によるものであり、殊に被告人らにおいて一五三号車をそのように利用しようという意図は勿論のこと、利用されるという認識をもつてその確保に当つたことを認めるに足りる証拠はなく、更にバス確保戦術そのものに、バス利用の目的があつたことを認めるに足りる証拠もない。よつてその余の構成要件該当について論ずるまでもなく強盗傷人罪は成立しない。
2、バス看守という業務の主張について
検察官は、移動隊責任者平田均は移動隊に対し必要な業務命令を発することを社から任されており、本件の際、移動隊に対しバス六台の看守を内容とする業務命令を発し、下野外一三名の者はこれに従い一五三号車の保全看守業務を行つていたと主張する。
ところで移動隊創設の目的、組織、指揮系統は総論既述のとおりであり、それは専ら支部組合に備えて設けられた純然たる争議対抗のための臨時特別組織であつて、本来会社の業務たる自動車による一般旅客運送とは関係のない組織である。
しかも下野外一三名の者が山電従業員であつたことは明らかであるが、一五三号車の警備は移動隊大賀隊長からの指令による(「一」記載)ものであつて山電の従業員としての地位に基づくものではなく移動隊員としてのそれに基づくものと解すべきである。検察官は会社従業員としての地位に基づき行なつたと云うが、移動隊員の中に広電等他企業の労組員や一般人が混つていたこと(総論移動隊の項参照)を考えると移動隊は山電従業員を主体として組織されたというにすぎず、山電従業員としての地位資格は余り問題とはなつていないことが明らかである。
これらを総合して考えると、下野らの一五三号車の警備は社会生活上の地位にもとづくものではないと解するのが相当であり、また、移動隊使用バスの警備に、アルバイト学生を雇つていたこと(総論)からすると、下野らの右警備が継続性を持つていたとは考え難く、本件の如く支部組合側の確保行為が具体的に予測される場合、特別に大賀隊長から発せられる指令による臨時の防衛任務であつて業務性はないとみるのが相当である。
よつて下野らの本件バスの看守は威力業務妨害罪にいう業務にあたらないと解すべきである。
(二) 弁護人の主張に対する判断
1、共謀について
統一された行動集団がその持つ共同目的の如何によつて、違法集団とされ或は適法な集団としての評価を受けるに至ることは蓋し当然であり、こと争議行為を目的とした、いわゆる団体行動権に基づく集団行動といえども、その理を異にするものではない。
すなわち、当初は正当な争議行為を目的とした集団行動であつても、それが目的において違法性を持つものに変化した場合、もはや争議行為を目的とした合法な集団行動ではなく、違法行為を目的とした集団行動として違法の評価をうけるに至るものであつて、個人がその共同目的を認容してその集団に属し行動している以上、相互に意志の疎通を認めるのに何の障害もなく、その集団が一定の目的の下に統率されている場合相互の意志の疎通は更に明瞭なものとなつてくることは論ずるまでもない。これを本件についてみるに、被告人らが東駅を出発、新地町に到着し、一五三号車に対峙し説得によつてバスを確保しようとした限りにおいては、移動隊のもつ争議対抗行為を目的とした集団であつたことを考慮するとき、なお、正当な争議行為の範囲内にあると云いうる余地がない訳ではないが、実力によつて移動隊を排除すべく一五三号車を取囲んだ時点以降においては一五三号車を取り囲んだ被告人らの判示約一〇〇名位の集団は、もはや正当な争議行為を目的とした合法な集団としての性格を失い、違法行為を目的とした違法集団としての性格を持つたものに転化したものと評価しなければならず、その実力行使の態様は判示のとおり暴行傷害を伴うものであつたことからするも違法集団としての評価を受けるに至るも止むを得ないものと云うべきであつて、被告人らの所為が判示記載のものである以上、そこに集団を形成した右一〇〇名位の者との間に相互に意思連絡を認めるに何ら妨げはない。弁護人は労働刑事事件に現場共謀を適用することは、違法性の段階的把握に欠けるものであると述べるが、その所論のとおり正当な争議行為を目的とした集団の一部の者の行動が正当な争議行為の範囲を逸脱した場合、それが直ちに刑法にいう可罰的違法性として評価されるものでないことは勿論であるがその行動の持つ違法性が可罰的なものとなつた以上、もはや争議行為としての正当性は否定され、違法性を阻却すべき理由はないと解せられ、当該行為に刑罰法規が適用されることは当然のことにすぎず、かかる行動にいでるに当り、そこに相互に意思連絡がある限り、現場共謀を認めるに何ら支障のないことは改めて論ずるまでもない。確かに弁護人指摘のとおり争議行為は相手方の対抗行為に応じて瞬間瞬間に流動する集団行動であつて、争議参加者に、質的に全体としての争議が違法に変化したという判断のつき難い場合のあることは集団行動としての争議行為の実態から見て否み難く、単に集団の構成員であり、現場にいたこと丈で直ちに現場共謀とは見得ないことも十分に肯けるが、本件が右の如き場合に当らないことは前叙の事実から明らかで、右弁護人の所論は本件には当らない。
更に弁護人は使用者の争議対抗行為は権利として認められたものではなく争議行為との関連においては、業務性はなく業務妨害罪は成立しない旨、主張する。
しかしこの点については小月事件においてすでに述べた通りであり、また威力業務妨害罪における妨害の客体は、単に、現に執行中の業務のみには限らず広く業務の経営を阻害する一切の行為を含むもので、被告人らの本件所為が、一五三号車を東駅構内へ運び、これを業務経営の用に供することを阻止したるものである以上、会社の自動車による一般旅客運送業務の経営を阻害したというに難くなく、その手段が前示の如く暴力を伴うものであるからには正当な争議行為として違法性を阻却せず業務妨害罪を構成すると解するのが相当である。
第五、山陽自動車学校事件
一、事件の概要
自動車学校は三四年末頃から山電の取締役間で、時流にそつて自動車学校設立の話が持上り、三五年に入つて具体化し理事長に山電社長林佳介、理事に山電の総務、経理、自動車、土木の各部長、常任理事に山電以外から河野泰光が就任し、敷地建物は山電の傍系会社山電不動産から、運営資金八七〇万円は山電からそれぞれ借り受け、同年七月二一日、山電社長林佳介名義で各種学校としての認可を受け、佐々木只介を校長に迎え、下関市大字豊浦村字松原二八五九番地(通称、長府町松原)において開校したものであり、その総面積は三、八五四坪で、殆んどが練習コースを形成、正面入口横西南側高台(なお正面入口と云つても特別門戸が設けられている訳ではなく、公道より学校に通ずる距離約三四メートル、幅約八メートルの通路があり、その通路と学校敷地との交差する場所が正面入口となつている。)に学校事務所木造平家建二二坪が建てられ、それより西方約一三〇メートルをへだてて練習場をはさみ平家バラック建七〇坪の校舎から構成されている。既に総論で述べたように三六年春闘に当り安成運行課長は車輛分散先に自動車学校を選び五月初旬佐々木校長に争議の際、支部組合のバス確保を阻止するため、車を待避させるのに学校の構内を貸してほしい、分散後のバスの警備については会社側が行ない学校側に迷惑はかけない旨を申し入れ、佐々木校長も学校側は車の保管については関与しないことを前提にこれを承諾し会社側は五月一五日頃、学校の周囲の柵を補強し更に正面入口に至る通路両側校舎裏側、練習コース南側にそれぞれ丸太と有刺鉄線を使つて柵の新設工事を行ない正面入口以外の出入口を閉すと共に五月二四日山電従業員の練習バス二台をまず分散し、支部組合の動きの活発化した五月二五日夜には下関営業課所属の定期運行終了のバス一五台を分散し翌二六日朝、右分散車は四台を残して定期運行に出発、同日夜再び一四台が分散され、二七日朝再び定期運行に出て同日夜迄には合計一六台のバスが終局的に分散された。(総論既述)
ところで前記、自動車部課長会議で自動車学校の分散責任者と決まつた下関営業課大久保課長は五月二五日同営業課安田係長を指揮者として同課所属の山労員十数名を先発隊として自動車学校に出向駐留させて分散車輛の警備に当らせ、二七日までに更に二十数名に増強、自らも二八日から争議終了まで常駐して指揮をとりなお山電本社からは警備のため右翼或いは暴力団と思われる者二十名近くが派遣され、一方二七日の分散終了をまつて、学校正面入口に通ずる通路には自生する楠を利用して通路入口から約一〇メートルの地点に第一の、それから更に約五メートル正面入口寄りの場所に第二の、二段構えのバリケードを作り「無断立入禁ず」と書かれた横三〇センチメートルの板製立札を立て、その後方入口寄り約五メートルの場所に右練習用バス一台を斜め横にして置き、タイヤの空気を抜いて動かせない状態にして僅か人一人がやつと通れる位にして通路をふさぎバリケード代りに使用して入口を固め、分散車輛は入口から最も奥まつた校舎近くの初心者練習場に一まとめにして置きタイヤの空気を抜き更に外側に位置する車輛についてはハンドルを外したりその他の部品を除け、直ちに運行出来ないようにして全体の車輛の移動を不可能な状態に置き、支部組合の確保を防止する手段を講ずると共に右警備要員を校舎講堂に寝泊りさせ、一班四、五名からなる班編成を行ない二四時間警備態勢を敷いた。このため争議期間中、学校の練習は行なわれず休校同様となつた。一方六月二日早朝会社側のバス運行計画(総論第七参照)を察知した共闘委中田は地労委が斡旋に乗り出している折柄、ここで会社側に運行されては争議の成果が減殺され組合側有利の斡旋案を得る見込みが薄れると判断し、朝四時半頃共闘委の八代に対し自動車学校に分散中の車輛の運行を阻止するよう指示した。この指令を受けた八代はまず説得により運行阻止を図るが終局的には確保するより外あるまいとの方針で直ちに青行隊、炭労関係支援オルグ約一三〇名位をひきいこの旨を説明、三台のバスに分乗し自動車学校に向い同五時頃自動車学校近くの豊浦高校附近で下車、四列縦隊位の隊形を整え正面入口に向つたが途中道路に設けられた右バリケードに阻まれて一旦その前に停止を命じた。その間これに参加していた被告人小島、同小田、同西村、同浜本らは他二、三名の者とバリケード横隙間を通り抜け、やがてその他の大多数の者もバリケード北側半分、第二バリケード南側半分を取壊し、防塞用バス横のわずかな間隙を縫つてそれぞれ校内に立ち入り、支部組合来るの報告で自動車学校宿直員一名、会社側警備員大久保課長以下二十名近くの者が事務所前高台に集まり見守る中で八代の指揮で事務所下広場附近に整列し、被告人小田、同西村、同浜本ら約十名位の者が分散車の現況見分にバス集合地点にかけつけ三人で修理しても半日はかかる程度に部分品が外されている旨の見分の結果が八代に報告された。右報告を受けた八代は現況では自動車学校分散の車輛が運行に使用される可能性はないと判断し四列縦隊に隊伍を組みかけ足で自動車練習コースをほぼ一周する示威行進を行ない、表通路を通つてこの間約四〇分間くらい校内に留まり引揚げた。
二、公訴事実の要旨
被告人西村、同小島、同浜本、同小田はいずれも支部組合の組合員であり、支部組合の労働争議に参加していたものであるが外一二〇名位と共謀の上、山陽自動車学校が山電より保管方依頼されているバスを奪取しようと企て故なく昭和三六年六月二日午前五時頃右自動車学校校長佐々木只介看守にかかる下関市長府町松原二八五九番地の二所在の同校校内に侵入したものである。
三、当裁判所の判断
被告人四名が八代指揮下の約二三〇名ぐらいの支部組合側労組員と共同して、自動車学校に分散中の山電バスの運行阻止を意図し、終局的には確保して、東駅に回送する目的で六月二日午前五時頃無断立入りを禁止していた自動車学校内に立ち入つたことは「一」記載の事実によつて明らかである。
よつて本件立ち入りの違法性の有無についてまず検討する。
自動車学校は「一」記載の各種学校の認可を受けた主体、理事の構成、土地、建物の所有関係、経費資金の出所、スト期間中の学校の休校、河野泰光八六回供述等を総合してみると、本件当時山電の営む本来の営業である自動車、電車各部門等と同一の地位を占めるものではないけれども、名目はともあれ、実質は山電の営む一営業部門であり、その運営が理事会によつて行なわれ、指揮命令系統などが、本来の運送業務とは全く独立した型で行われていたにすぎないということができる。
仮に右が失当であるとしても本件当時は完全に山電の支配下にあつたことは明らかである。
それ故にこそ、山電及び「一」記載の車輛警備のためにおもむいた下関営業課安田係長は佐々木校長に一言の断わりもなく、柵の新設、補強、バリケードの構築をなし得たものと考えられ、これら自動車学校が車輛分散を了承した経緯、車輛警備の状況、争議中の学校の休校、バリケードの設置等一連の処置はすべて争議対策を目的としたもので、これと山電との関係を総合すると、争議に関しては、自動車学校は会社に全面的に協力し、寧ろ一体となつて争議対策に当つたもので、自ら第三者としての地位を放葉したものというべきであり、本件における被告人四名の自動車学校への立入りは第三者占有の土地へのそれではなく、山電の占有する土地への立入と同等のものとしてまず評価されなければならない。
当時自動車学校がその周囲を有刺鉄線を使つた柵によつて囲まれ立入制止札が一〇枚近く立てられていたこと、右が会社側の車輛分散に伴い、専ら、支部組合側の車輛確保を防止するためであつたこと、従つて、会社の右立入禁止の主たる名宛人は、支部組合側労組員であつたこと、はいずれも「一」記載の事実から明らかである。
ところで会社が所有権或は占有権に基づき、その看守にかかる特定の場所、施設に対し従業員及び一般人の立ち入りを禁じ得ることは勿論であるし、その禁止を侵し、故なくその場所、施設に立ち入つた場合住居侵入罪が成立することは言うまでもない。
争議の場合、通常従業員の立ち入りが許されている施設、場所に対し、使用者側が争議中の従業員の立ち入りを禁止した場合その禁止が濫用にわたらない限り、これに背き争議中の従業員がこれに立ち入つた場合でも、争議中であることのゆえをもつて、所有権の支配機能が変更されるべき理由はなく、やはり住居侵入となり、それが正当な争議権の行使の範囲内にある限り、その違法性が阻却されるにすぎない。
そこで被告人ら四名を含む八代以下約一三〇名位の者の本件自動車学校への立ち入りが正当な争議権の行使として認め得るかについて論を進める。
被告人らの自動車学校への立ち入りが終局的には確保を目的としたものであつたことは前記のとおりであり、自動車学校におけるバスの分散保管は、会社側が自らの意思に基づいてなした所有権の行使の結果であり、その静的機能の現象に外ならない。してみると会社側のかかる支配管理を排除し、これを会社の所有地とはいえ、現に支部組合側の占有、支配する場所(東駅構内)に移転し、保管しようとすることは所有権の静的機能を侵害するものとして特段の事情のない限りかかる態様における確保行為は、違法な所為と云わねばならない。
さて会社側が、六月に入るや運行計画を立て、六月三日から運行を開始しようとしたことは前述のとおりであるところ、三四年一二月の会社側の手による組合の分裂、それ以降本件争議に至るまで執拗に加えられた支部組合への攻撃、弱体化政策等から文字通り組合崩壊の危機にさらされた支部組合側が、本件争議に対し、組合組織の興廃をかけて取組んだこと(総論既述)それ故会社側の右運行計画の遂行によつて受けるストライキ効果の減殺をなんとしても阻止したかつたこと(八代尋問)、本件争議に関し、会社側は暴力団、右翼を雇い入れ、争議心得(全文)を作り、移動隊を設置し、支部組合の争議行為の制限を図つたこと(総論記載)、前示認定のように自動車学校には特に二〇名近くの暴力団を警備要員として派遣していること、分散したバスが二六日・二七日自動車学校から現に運行に出ていること等を総合して考えるとき、被告人らが会社の運行計画のあることを知り、自動車学校に分散した車輛による運行をなんとしても阻止したかつたことは十分に理解し得るところであり、これを阻止するためには、終局的には車輛の確保も止むなしと考えてはいたけれども、まず説得によつて、これを阻止する意図であり、かかる意思で前叙のように自動車学校に立ち入つたもので、その行動はバリケードの破壊を除けば、平穏な態様であつたし、説得するとしても学校内に立ち入らなければ実行は不可能であり、立ち入ること自体は右のような事情のもとにおいては是非もなかつたとみるのが相当であり、現実には「一」判示のとおり、運行不能な状態で運行に供される心配はないとみるや、山労員の説得にも確保行為にも着手することもなく退去している。
検察官は、本件立入りが午前五時一七分頃のことで、説得には不適当な時間帯であること、説得には無関係な整備工具の携帯、この一隊が新地町でバスを確保したこと等から、八代らは説得の意思はなく、確保を目的としていたと主張するが、新地町のバスは移動隊のものであつて、移動隊の性格からして説得が意味を持たないことは第一新地事件に徴し明らかで、且つ、第二新地事件記載の認定事実に見られる如く、第二新地事件においては、八代ら一隊の者が駐車した山電バス近くに行つたとき、既にこれに対抗すべく移動隊が待ち受けていたもので、本件とは事情を異にしており、整備工具の携帯、或は立入時間等も、前示のように八代は終局的には確保を考慮していたもので、その点からは別に異とするには当らず、これから説得の意思がなかつたとは云えず、検察官引用の八代尋問は前認定のように供述しており、検官察の主張は失当である。
してみると、バリケードの破壊の点を一応除外してみた場合被告人らの本件所為は正当な争議権行使の範囲内にあると解するのが相当である。
次にバリケードの破壊状況は前認定のとおりであるが、三六年六月四日付三村源治実況によると、バリケードは、丸太を有刺鉄線を使つて組合せ、それを更に有刺鉄線を使つて自生の楠に緊縛して固定し、数段にわたつて有刺鉄線をこれに張りめぐらして造られたもので楠に固定した部分の有刺鉄線を切断すれば自然に倒壊する構造をなしており、八代らは右部分を切断し、倒れたバリケードを片側にまるめて寄せ、通過したものであることが認められる。
従つて当時警備に出ていた藤井久二はバリケード用のバスの中から八代ら一隊の行動を目撃しながら、バリケード破壊の状況を目撃していないのもこのようなに簡単な手段によつて倒壊した為であろうと推察される。
しかも破壊されたバリケードは学校にとつて必要な恒久的施設ではなく、既述の如く山電が支部組合側の者の立ち入りを防ぐ目的で学校入口に臨時に設けたもので、争議終了後は当然取り除かれるべき運命にあつたものである。
これ等の事実及び本件争議の全態様を総合勘案すれば、バリケードの破壊は穏当を欠くことは確かであるが、暴力とまで言いうる程の実力行使とも言い難く、本件が早朝であつたこと、約一三〇名の多数であつたことを考慮に入れても、被告人等の本件立ち入りには、いまだ実質的な違法性はないものと言わざるを得ない。よつて、自動車学校練習場が事務所、校舎と一体となり建造物に該当するか否かについて判断するまでもなく、建造物侵入罪は成立しない。
よつて、被告人らの本件各所為は罪とならないものとして被告人らはいずれも無罪。
第六、第二新地事件<省略>
第三章 車輛分散ならびに車輛確保についての主張に対する判断
一、車輛分散について
会社側が三六年春闘に際し、車輛分散策に出た経過並びに現実になされた分散の形態については既に第六会社の争議対策の項で詳述したとおりであるが、右分散が争議緒戦において、まず有利な争議態勢を確立しようという意図の下に展開された戦術であつたことは疑う余地もないが、<証拠>によると、右分散の目的は単にそれに止まるものではなく、操業の二要素である労働力と生産手段のうち後者であるバスを自己の手中に確保し、他の手段によつて既に当時確保していた労働力である山労員を使つて操業しようという目的をもつてなされたことを否定する訳にはいかない。
ところで、所有権の絶対性と契約の自由を基本原理とする市民法秩序の下においては、一般に生産手段の所有者は、その生産手段を直接いかに使用し、処分しようとも、それが法令の制限に違反し、或は濫用にわたらない限り所有権の絶対性の範疇に属すところであると共に、資本制商品交換の原則、すなわち自由なる契約を媒介として、自己の支配下に収めた労働力を使用して生産手段を動かし操業をなすことも、所有権の絶対性と契約の自由との結合として、右市民法の基本理念の具体的実践に外ならず、資本制生産社会においては、その制度そのものを支える根幹でもあり、操業の自由は一般に生産手段の所有者の最も重大なる自由権に属するものとして無条件に認められ、市民法秩序において十分なる保護と尊重が与えられている。しかして、労働力と結び付かない生産手段に対する支配権を所有権の動的機能と表現することができ、操業は所有権のこの動的機能の表現形態ということができる。
このように、市民法秩序において重要なる自由として承認されている操業の自由が、労働争議下において、市民法秩序下におけると同一に承認され得るか否かは必ずしも明白ではない。
労働基本権が生存権的基本権として憲法に保障されていることは今更述べるまでもないところであるが、争議と操業の関係について弁護人は、平常の操業が停るか否かによつて争議の死命は制せられる。従つて争議権を実効あらしめるためには操業の自由は相当の制限に服すべきものであり、争議権と同等に対抗し得るような操業の権利は考えられず、操業は争議権との対抗の中ではその権利性を失い、争議行為に対する対抗行為として事実行為の性格をもつものとなると論じ、また、争議中においても使用者の操業が平常時における同様の意味において自由であり権利であるとせられるならば、かかる自由、権利に対する侵害、操業妨害を本質とする争議行為を権利として法認することは、そもそも不可能なことであり、またかかる意味において争議中の操業は単に放認行為にすぎず権利性はないと主張し、弁護人の右主張を裏付ける学説も存在するところである。
思うに、労使関係における商品(賃労働)交換関係は、企業の所有者にとつては剰余価値を獲得し、更にその拡大に務めようとするものであるが、他方労働者は、その得た対価以上の労働力の消耗をなさしめまいと務める互に対立し、内部に矛盾を含む関係であることからすれば、商品交換関係として確かに所有権の絶対性、契約の自由、平等なる人格者の理念、すなわち市民法秩序の基礎の上に存在はするけれども、決して統一的な原理に支配されているわけではない。企業者の市民法原理の固執に対し、他は新しい法原理いわゆる労働法原理による支配を要求しているものと考えられ、この二つの権利の衝突を如何に調整するかの極めて困難な問題を生ずるが、現行法における労働法の存在は、市民法体系の労働法的修正と認めざるを得ない。しかして賃労働における商品交換関係が労働法原理によつて、いかなる面において、いかなる修正を受けるべきものかは論者によつて必ずしも一義ではないが、按ずるに、労働法諸原理は歴史的には市民法秩序に対して労働運動が闘い取つたものであり、その限りにおいて資本と労働力との力関係で決定され、且つ動いていくものではあろうけれども、現行制定法に結晶した労働法の基本原理は、それが賃労働者の生存権に根差したものであつても、決して市民法体系そのものを否定し去つていないことは言うまでもないところで、市民法に対する労働法の優位をも格別承認しているものとも解し難い。すなわち、市民法の根本理念である平等なる人格の自由な等価交換の関係を、原理的に承認し、ただ市民法の予定した対等の個人対個人の関係の代わりに団体的取引を承認し、これを保障し、具体的な商品交換の場において、その対等性を維持せしめるため、集団的な実力の行使により業務の正常な運営の阻害、いわゆる操業の妨害を権利として認め、それをとおして、市民法において抽象的に存在する自由意思による平等の商品交換という原則を具体的に現実化しようとするものであつて、労使対等の原則とはまさに、この原理の宣言に外ならず、かかる意味において、争議下における使用者の操業が争議行為によつて制限されるとしても、このことは労働法原理の市民法に対する優越ではなく、修正された市民法原理の具体的実現にほかならないと解される。
そうしてみると、争議下といえども、市民法原理に基づく操業の自由は、その基調において何らの変更を認めるべき必要はなく、ただ平常時においては、その妨害・阻止は直ちに業務妨害として違法とされるに反し、争議下においては、商品交換の団体的取引の承認の現実化・作用として、その妨害・阻止行為が違法性を阻却するにすぎないもので、操業の権利性そのものが否定せられたものではなく、ただ単に、操業妨害の結果を当然の権利内容とする争議権それ自体の、かかる意味における操業の権利に対する優越性の故に違法性が阻却されるにすぎないものであつて、争議権の行使としてなされた争議行為が社会通念上認められる正当性の範囲を逸脱した場合には、もはや違法性の阻却は認められない。このように操業の権利性そのものは争議下であろうと、平常であろうと、現行法秩序(労働法も含めて)が右の如き原理に基づくものである以上少しも変わりはなく、ただ業務阻害をなした争議行為が刑事罰の適用外にあるか否かは専ら、阻害行為が正当な争議権の行使の範囲内の行為として認め得るか否かにあり、争議行為それ自体に内在するものと解される。
更に弁護人は、争議が力の対抗関係である以上市民法に基く権利であることの故をもつて、争議対抗行為を正当視することは争議権保障の趣旨に鑑み許さるべくもないと主張するところ、確かに争議中の操業が争議本来の効果である業務阻止の効果を減殺し、争議労働者の闘志をくじき、団結を動揺せしめる心理的効果を有し、使用者の優位において争議を導くもので最も効果的な争議対抗行為であることは勿論であるが、それ故にこそ争議行為について業務阻止を正当行為として承認し、保障したもので、現実の争議において労使双方がその持てる力を如何に使用し、自己の主張の貫徹を計るかは、専ら労使双方の力関係であつて、使用者が自己の持てる力を利用して争議行為によつて受けることのあるべき業務阻害による損害を最少限度に喰い止めようとすることは、企業防衛の立場或は商品取引関係において優位を占めようとする資本そのものに内在する本来的欲望の現われであつて経済取引に当然随伴することである。それが争議団の団結を専ら阻害する目的のみをもつて遂行されるとか、一般に予測される経済取引における公正な取引手段を逸脱するなど、商品取引関係における当事者の平等性を破壊し、争議権の保障を無意味にするが如きものであればともかく、一般に対抗行為であることの故をもつて争議権の保障を無価値化するものとして、これを否定すべき論拠はとぼしく、労使対等の原則は前記の如き意味のものであつて、争議の現実におけるその力を平等ならしめるものではない。
そこで、車輛分散について按ずるに、山電のとつた車輛分散は第六項記載の如くであつて、争議開始前における分散、分散地における車輛防衛のための暴力団の使用、或は争議団が干渉することの許されない第三者の管理下に、その干渉することの許されないことを計算したうえで取られた分散等確かに隠当を欠くものであつたことは否定し難いが、三五年春闘の際山労員による操業を予定しながら現有車輛の九〇%を支部組合に確保された経緯或は多数の支援労組員の動員の実績等既述の会社と支部組合との拮抗状態並びに三六年春闘の争議経過、業務阻止の程度等考え合せると支部組合の争議権を無意味ならしめる程のものであつたとまでは云えないし、また三四年一〇月の機構改革に始まる会社側の支部組合に対する攻撃が苛烈なものであつたことは前認定のとおりではあるが、かといつて車輛分散が弁護人所論の如く、単に支部組合の団結権の破壊にのみ向けられたものとまでは認め難く、分散地からの運行が弁護人主張のように道路運送法一九条一項に違反している疑いがあり、同法が行政取締法規であるとしても、法律に違反してまでなされる操業の自由或は争議対抗行為を公平なる手段として容認し得るかは疑問のあるところではあるが、車輛分散そのものは所有権の静的機能に外ならず、安成一二回証言によると分散の責任者であつた安成運行課長は分散地からの運行が右法規に牴触する疑には気付かず、前記のように運行を目的として車輛分散をなしたものであつて、特に運行の為の分散に藉口して支部組合の争議権行使の阻害を目的としたものでなかつた以上、右のことは現実の運行に当り、それが行政取締りの対象となるか否かの問題にすぎず、争議権とのかかわりにおいては特段の意味を持つものではない。
そうしてみると、会社のとつた車輛分散は操業の自由の外延にあつて、且つ所有権の機能としてなお適法な行為であると云うべきである。
二、車輛確保について
検察官は争議行為の本質は労働者が労働契約上負担する労務提供義務の履行拒否にあつて、積極的・攻撃的なものは許されないと主張するところ、同盟罷業については右主張は肯認できるとしても、同盟罷業が争議行為として最も典型的なものであるとは云えるけれども、それが争議行為の凡てでなく、争議行為は、歴史的、経済的或は相手方の対抗策・攻撃の態様等諸般の要因に左右され、その最も効果的な手段を模索しながら流動的に多彩に決定され実践されていくものであつて、現実の争議の場においては、それら幾多の手段が組合わされ労使双方の力の拮抗状態が描き出されるもので、争議行為の本質が労務提供義務の履行拒否にあるとしても労務提供義務不履行が、争議行為のすべてではない。労働関係調整法七条を引用するまでもなく、争議行為は使用者の業務の正常な運営を阻害するまでもなく、争議行為は使用者の業務の正常な運営を阻害するすべての行為を包含するものと解するのが相当であり、労務提供義務の履行拒否がその中心をなすものではあるがこれのみに止るものではない。
これら阻害行為は、それが目的・手段・態様等が社会通念に照らし相当な範囲内にある限り、積極的・攻撃的な手段をも含むものと解するのが相当である。しかしながら、その積極的・攻撃的な手段は業務の正常な運営の阻止に向けられたものでなければならないことは云うまでもなく、かかる意味において争議行為は所有権の動的機能の減殺にあることも明らかである。
このように、争議行為によつて許るされる業務阻止行為は所有権の動的機能の面にのみ働き、それに止まるべきものであつて、所有権の静的機能を侵害するが如き行為はそれが争議権の名の下に行なわれたとしても、それは争議権の濫用に外ならず、本来商品交換関係における平等なる取引主体の理念にはかかわりなきことであり、寧ろ、その商品交換関係を支える所有権の絶対性を侵し、商品交換関係そのものを破壊するものであつて、この交換関係を維持し、規律しようとする現行法秩序の下においてはとうてい容認されるところではない。
従つて、その生産手段に対する使用者の支配管理権を一時的にせよ完全に排除して、それを自己の勢力下に収めるが如き争議行為は所有権の静的機能の侵害であつて、既に正当性の範囲を越えるものとして、一般的には違法な争議行為と云うべきである。
しかして、車輛確保と称される戦術は、通常生産手段たる車輛を争議団の勢力下にある使用者側の所有地域は車庫に格納し、争議終了までこれを支配管理する争議戦術を云うものであつて、交通産業において、生産手段たる車輛の確保行為がとりもなおさず、一般産業におけるシット・ダウン或はピケッテイングに相当する争議行為に外ならないとしても、生産手段たる車輛は会社側が本来支配・管理すべき生産手段の中枢をなすものであつて、この支配・管理を完全に排除して争議組合が車輛を自己の支配下に置くことは、会社の車輛に対する所有権の機能を一時的にせよ排除したものと云わなければならず、それが最も効果的な業務阻止手段であるとしても、(通常の場合、業務の正常なる運営を阻止する手段はそれのみに止まるものとは解されず、)その手段をとるより外に争議権の実質的保障を完うする方法がない等特段の事情のある場合は格別、一般的には所有権の静的機能の侵害をもたらす車輛確保戦術は正当な争議行為とは云えない。しかしながら、既に述べたように労働争議はまさに、使用者と労働者との現実の力の争剋であつて、相手方の取る手段方法によつて、その対抗策は流動し、刻々変化するものであり、また争議発生の経過並びに操業態勢等を反映して移り動くものであるから、現実になされた争議手段の正当性の評価は、かかる実践の場において究明さるべき性格のものであつて、概念的に定め得るものではない。前記特段の事情の存在もまた同様であり、仮りに所有権の静的機能の侵害ありとしても一概にこれを違法として断ずる訳にはいかず、侵害の程度とかかる争議手段にいでた事情等を勘案し、更に互の対抗行為によつて侵される互の権利の内容或は利益等を考慮して当該争議行為の正当性を判断すべきものと考えられる。
そこで、本件争議についてみるに、支部組合が車輛確保戦術にでたことは第六項中支部組合の対策の項で述べたとおりであるが、総論既述の本件争議に至るまでの事実に基づいて考えるに、支部組合側が車輛確保戦術にいでたゆえんのものは、次の如き事情によるものであつた。
すなわち、会社側の三四年職制改革に始まる支部組合対策は、企業収益の停滞に伴う企業防衛の必要からとられたことは認められるけれども、その実行された組合分裂、新・旧労組の差別等の諸方策は、単なる組合懐柔策に止まらず、ことに三五年春闘後の会社側の攻撃は支部組合の組織の壊滅をも意図したものと云つても過言ではない程の苛酷なものと云うことが出来るのであつて、三六年春闘は、その交渉の経過、並びに闘争目的として掲げられた諸要求から明らかなように、支部組合がそれまで闘争によつて克ち得て来た労働条件に関する既得権及び組織に対する会社側の攻撃からこれらを防衛するため、むしろ会社側に挑まれてうたれた争議であつたと云わざるを得ない。
また、三五年・三六年の争議における会社側の争議対抗策をみるに、山労との間には争議関係がなかつたのであるから、これら従業員を使つて操業をなし得ることは当然ではあるけれども、交通産業においては川本一〇回証言でも明らかなように「ダブリ勤務」と称する就労形態によつて、平素の半数の乗務員と半数の車輛があれば全線の平常どおりの運番の実施が可能であり、且つ、既述の経過の下に結成され、幾多の不当労働行為の疑いを有する差別取扱い或は山労加入への職制による勧誘等会社側の山労育成の状況からするならば、山労の性格は、労働者が主体となつて労働条件並びに経済的地位の向上について、自己の主張を貫くため団体行動を行なうために自主的に団結し、組織されるべき労働組合の本来の性格に背馳しており(本件争議以降その性格がいかに変化したかは別として、本件争議の時点までにおける山労の性格が右の如きものであつたことは確かである。)、三六年春闘における地労委の斡旋案を下回る山労の資金要求、また争議心得(全文)の存在、移動隊結成の経緯並びにその行動、会社の争議対抗策としての車輛分散地における分散車輛の防衛への山労員の参加の事実はこれを明瞭に浮彫りしたものと云うことが出来る。このように支部組合に対し激しい敵意を抱き積極的に会社側に同調してその対抗策に参加し、会社と同一歩調をとる山労の如き第二組合が存在する場合、山労員が「ダブリ勤務」による運行に従事することは十分に推測し得ることであり、これによつて全運番が実施されるとした場合、右の如き性格を有する山労員による運行を、支部組合が正当な範囲内における阻止行為によつて、その業務の運営を阻害しようとしても、蓋し不可能というべく、加うるに、交通産業においては一般産業における生産点としての工場や事業場がバス自体であるに拘らず、それ自体が移動性を有し、本件の如く多数地域に車輛を分散し、その地から運行することが企図された場合、いかなる争議手段をもつてしても、それが説得等の合法的とされる範囲内に止まる限り操業の阻止は期待し得ないことは明らかである。勿論検察官所論のとおり、現実の闘争の場において、その業務の阻止をなし得るか否かは専ら労使双方の力関係によるものであつて労使対等の原則が、かかる現実の拮抗において争議組合に対し、使用者側と同一の力を持ち得るよう保護を与えるという原理でないことは云うまでもないが、以上の如き諸般の事情を考慮するとき、かかる事情下にある争議団に対し、一般的に合法的とされる争議行為による争議に止まるべきであると云うことは、争議組合に対し敗北を強いる結果となることは火を見るより明らかであつて、争議に訴えたこと自体既に無意味であり、かくては単に争議の場における労使双方の現実の力関係対等化の域を越え、もはや、争議権そのものの実質的否定としての意味を持つて来ることを認めない訳にはいかず、争議権の保障そのものの問題となるといわざるを得ない。されば操業の目的のためにとられた車輛分散が所有権の一発現型態として適法であるとする以上、支部組合が業務阻止のため、とり得る適切なる争議手段は分散時における車輛を自己の勢力下に収めるより外になかつたことは明らかであり、現実に何台の車輛を収め得るかは、専ら労使双方の有する現実の力関係であつて、その手段が違法でない限り、法の関知するところではない。
以上本件における車輛確保戦術が止むを得ない争議手段であることを述べたが、既述のように車輛確保戦術が所有権の絶対性を侵すものであることを否定することは出来ず、それが資本制制度を支える中枢であることに思いをいたすとき、争議手段としては止むを得ないという一事をもつてはいまだ所有権の侵害をもたらす争議手段を容認し得ない。しかし所有権といえども濫用は許されず、所有権の侵害の程度が軽微であつて社会通念上認容すべき範囲内のものであるとか、或は当該行為によつてもたされる利益が侵害による不利益を遙かに凌駕するが如き場合所有権といえども制限される場合のあることは否定し得ない。これを本件についてみるに、支部組合の車輛保管の現状は第七項記載のとおりであり、善良なる管理者としての注意をもつて管理していたというに妨げはなく、会社側に対して、何時でも点検・整備に応じる旨の申し入れをなしており、必ずしも会社の占有を完全に排除したものとも云えず、もともと、争議下において組合による生産手段の排他的支配を違法となす所以は、それによつて操業一般が阻止されるという点にあるのではなく、主として、企業所有者が企業存立のため、その物的施設保存のために要する必要不可欠の措置を不可能ならしめる点にあるのであつて、支部組合の車輛管理形態からするならば、さして侵害の程度は重大なものとは云えず、且つその侵害の程度と支部組合にとつて車輛確保戦術にいずるより外に争議権の実質保障を完うする方法がなかつたことを比較考量すると、本件の如き事案に関する限り車輛確保戦術は止むを得なかつた争議手段として、その正当性を認めるべきが相当である。(勿論争議組合が極端に少数組合の場合考え方は変わるものと思考される。)
尤も支部組合側が確保した車輛のうち数台のバスが支部組合員或は支援労組員の移動に使用されているけれども、これは車輛確保戦術決定の当初から予定されていたものではなく、福永五八回証言によると支部組合は初めは若松市営バス西鉄バスなど数社のバスを借り切り、移動用に使用していたところ、会社側が右各社に対し、争議組合への貸切りバス使用を中止して欲しい旨の要請によつて、使用し得なくなつた結果、止むなく取られた措置であつて、その使用は、会社側のかかる所為に起因すること、使用台数が僅かであることを考えると敢て違法という迄のことはない。仮にこれを違法としても、かかる使用を目的の一つとして車輛確保戦術がなされたものでない以上、車輛確保戦術そのものを全体として違法ならしめるものではなく、かかる目的のなかつたことは前述のとおりである。(本章中何項記載とあるは総論を指す)されば、支部組合のとつた本件車輛確保戦術はいまだ正当な争議行為の範囲内にあるというのが相当である。
よつて、主文のとおり判決する。
(阿座上遜 英一法 桑原昭熙)
この判決における略語は次のとおりである。
総論関係
一、山電或は会社――山陽電気軌道株式会社
一、私鉄総連――日本私鉄労働組合総連合会
一、私鉄中国――私鉄中国地方労働組合
一、山労――山陽電軌労働組合
一、関門急行――関門急行株式会社
一、労協――労働協約
一、支部組合――私鉄中国地方労働組合山陽電軌支部
一、中執委――中央執行委員
一、配転――職場配置転換
一、地労委――山口県地方労働委員会
一、県労評――山口県労働組合評議会
一、宇部窒素――宇部興産株式会社宇部窒素
一、興炭労――宇部興産炭鉱労働組合
一、地区労――地区労働組合連盟
一、地連――労働組合中国地区連合会
一、交運――交通運輸労働組合共斗会議
一、七中委――私鉄総連七回中央委員会
一、統一委――私鉄山陽共斗会議統一指導委員会
一、戦術委――戦術委員会
一、交渉委――交渉委員会
一、下関ジーゼル――株式会社下関ジーゼル整備工場
一、長府日産――山口日産自動車株式会社下関営業所
一、小郡民生――民生ジーゼル株式会社小郡営業所
一、山口日野――山口日野自動車株式会社
一、自動車学校――山陽自動車学校
一、別館――下関会館御裳川別館
一、広島電鉄及び広電――広島電鉄株式会社
一、石見交通――石見交通株式会社
一、日食――日本食糧倉庫株式会社下関支店
一、日炭高松――日本炭鉱株式会社高松鉱業所
各論関係
一、青行隊――青年行動隊
一、共斗委――共斗委員会
一、山陽無煙――山陽無煙鉱業所
一、長門鉄道及び長鉄―長鉄バス株式会社
一、尾道鉄道――尾道鉄道株式会社
一、国労――国鉄労働組合
証拠関係
一、○○一回証言―第一回公判調書中の証人○○の供述記載
一、○○供述―証人○○の当公判廷における供述
一、○○尋問―証人○○に対する当裁判所の尋問調書
一、○○山口公判○回証言―山口地方裁判所昭和三六年(わ)第二三八号事件第○回公判調書中の証人○○の供述調書(凡て謄本)
なお、年号の記載のないものはすべて昭和三六年、年・月の記載のないものは、いずれも昭和三六年五月を指す。